これより愈々天保十四年の御用金一件について述べる。同年七
月六日、勘定吟味役朝倉外記は西町奉行所に大阪の豪商共を召し、
両町奉行(西は久須美佐渡守祐明、東は水野若狭守忠一)以下列
席の上で申渡して曰く、昨年以来幕府は政治を一新し、殊に今度
諸家救助窮民賑恤のために多額の府財を棄捐せられた。幕府は更
に府財を以て窮民の賑恤その他の仁政を施すつもりではあるが、
既往の支出已に莫大の金額に達し、この上軍用金に及ぼすやうで
は容易ならざる次第故、已むを得ずその方共に御用金を命ずる。
大阪は海運の便よく諸品輻輳し、自ら巨万の富を保つわけで、こ
れまで度々御用金をつとめ、近くは文化両度に七十余万両を差出
し、一廉の御奉公を勤めて居るから、幕府でも容易に御用金を命
じない覚悟である。先年西丸御普請の節、主として御用金を仰付
けらるべき筈であつたが、諸家並びに余国の献金でそれを済まし
た。これは全く臨時御用金下命の場合に備へられた訳である。今
日銘々が巨万の富を擁して居るのは銘々の働きで、敢て他の助を
借りたのではなからうが、祖先が矢石を冒して大名となれるもの
の子孫すら、参勤・軍役・臨時の御手伝等色々の勤をしてゐる。
大阪町人がそれらの勤をせずに、二百余年昌平の徳沢に浴して居
ることは銘々弁へ居るべき筈である。今度の御用金は幕府の新政
を助け奉るためであるから、かくの如き場合に一際目立つ御奉公
をなし、永世御記録に家名を残したなら、子孫も聞伝へて、自ら
驕惰を避け、家業も愈々繁昌するであらう。勿論御用金のことで
あるから、明年の暮から二十ケ年に割合せ、一年二朱の利息を差
加へて下戻し遣はすと。さうしてこの時は大阪ばかりでなく堺・
兵庫・西ノ宮の町人へも同じ意味で御用金を申付けた。
申渡中にある府財棄捐といふのは、本年四月馬喰町御用屋敷御
貸付金の半高を棄捐し、半高を無利息年賦納としたことを指すの
であらう。尤もそれは諸家救助にかゝることで、窮民賑恤といふ
方は何を指すのか明瞭でない。また申渡中に早える文化両度の御
用金といふのは、文化七年及び十年の御用金のことで、その償還
残高は天保元年の仕法替で、双方を一緒にして合計金六十二万両
余、利金三朱を加へ、五十ケ年賦(元金三十三ケ年賦、利子十七
ヶ年賦)で償還することになり、目下払戻中である。天保元年か
ら弘化元年に至る十五ケ年分と、弘化二三年の二ケ年分を同四年
に支払つてゐるから十七回分払つた訳になる。次ぎに西丸御普請
といふのは天保九年に西丸焼失に及び、その造営費として三家以
下諸侯に御手伝を命じ、万石以下に高割上納金を課し、或は寺社
農商にも献金せしめて普請をしたことを指すのである。
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