越前守の内閣が倒れて大炊頭の内閣となるに及び、御用金の跡
始末について幕府の内部に議論が起つた。請書を差出した者共の
中、身代の厚薄もあらうから、調査の上、一半を免除し、一半を
徴収したが宜いといふ案があって、これを勘定奉行町奉行に下し
て意見を徴した所、勘定奉行の意見は全部を中止し、改めて献金
を命ずべしといひ、町奉行の意見は御用金を中止してよいといふ
なら全部中止する方がよい、もし後年になつてまた\/財政の運
用を欠く恐があるなら、寧ろ請書の通り徴収し、愈々差支がない
と定まつてから、上納年限中たりとも残金全部を免除する方がよ
いといふ意見であつた。幕府の評議はどう決したか記録がないが、
事実に於いては町奉行の意見のやうに天保十四年度分・弘化元年
分・同二年分を取つて、あとは免除して居る。三回ではあるが、
この三回に取つた金額は免除した残七回分の金額より遥に多いの
であつて、銀五万二千三十一貫目余即ち総額の八割弱を三ケ年で
取上げた。
天保度御用金は翌年から二十ケ年に割合ひ、年二朱の利子をつ
けて返却する約束で、弘化元年分は二年に、二年分は三年に、三
年分は四年に返却されてゐる。処が弘化四年になつて第四回分
(弘化三年)以下の徴収を免除するといふ場合になつて更に交換
條件がある。(一)文化度二回及び天保度御用金差加金の利子を
切捨て、元金のみを返還すること、(二)以上三回の御用金償還
残額六万二千二百六十五貫目余を三十五ケ年賦で償還することゝ
いふ條件でした。この年賦高は一千七百七十九貫目余となります。
御用金高差加金高合計額六万七千八百十四貫六百五十匁よ
り、天保十四・弘化元・二の三年分の納入額五万二千三十一
貫七百五十匁を控除した残額一万五千七百八十二貫九百匁が
免除額である。
天保度仕法替の時、文化七年御用金残額十一万二千三千両、
文化十年御用金残額五十万七千九百八十九両三分、合計六十
二万九百八十九両三分、この文化両度の御用金残額合計を三
十三ケ年賦(三朱の利息はその以後十七ケ年賦)とし、天保
元年より弘化三年に至る十七回分、尤も弘化二三両年分は弘
化四年に支払つてゐるから、支払時期は必ずしも正確とはい
へぬが、兎に角十七回分三十一万九千九百三両余を支払つた。
故に残額は三十万千八十六両余、銀にして一万八千六十四貫
百五十六匁となる。これに天保度支払残額四万六千六百八十
九貫七十六匁を加へた六万四千七百五十三貫二百三十二匁が
三十五ケ年賦になつた。本文に三回の御用金償還残額六万二
千二百六十五貫目余とあるのは、大阪・兵庫・西ノ宮三ケ所
の分で、堺の分二千四百八十七貫目余を除外したものである。
大阪外三ケ所御用金差加金年割納方及び下戻仕訳表
| 年度 | 年割納方 | 下戻高 | 利銀 |
| 天保十四年 | 貫 匁
二二、六六二.九五〇 | | |
| 弘化元年 | 一五、一一四.五七五 | 貫 匁 分厘
一、一三三.一四七.五〇 | 貫 匁 分厘
四五三.二五九.〇〇 |
| 弘化二年 | 一四、二五四.二二五 | 一、八八八・八七六.二五 | 七三二.八八七.五五 |
| 弘化三年 | | 二、六〇一.五八七.五〇 | |
| 計 | 五二、〇三一.七五〇 | 五、六二三.六一一.二五
| 一、一八六.一四六.五五 |
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