Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その116

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第六 御用金 (6)管理人註

嘉永六年の 上金 掛与力内山 彦次郎の説 諭

 天保度の次ぎは嘉永六年(一八五三)十一月の献金令である。 月番西町奉行石谷因幡守の説明する所によれば、(一)西丸御普 請(二)御大喪・御代替・将軍宣下(三)殊に海防筋に莫大の費 用を要する。この勢ではやがて御用金令が出るであらう。用金令 が出ない内に市民の方から進んで上納を願出でたならば、公辺の 御用途御繰合の一端とならう。平民の身分で公儀の手伝を勤める のは、其身一人のみならず、子孫の規模にもなることであるから、 精々奮発して出金せよとある。さうして兵庫及び西ノ宮へも同様 の命が下つた。西丸は嘉永五年五月に焼失し、将軍家慶は同六年 六月を以て薨じ、これと前後して米国使節ペリーは浦賀に、露国 使節プーチャチンは長崎に入り、天下頗る多事となつた。  説諭に応じて献金を申出でたものは極めて少数であつた。そこ で掛惣年寄薩摩屋仁兵衛(比田氏)は、申出を督促し、上納を年 割とするも可なりといひ、漸く請書は揃つたが、金高は案外上ら ぬ。よつて十二月の二日になつて、掛与力の内山彦次郎から一同 に対し峻厳な訓諭を与へた。曰く、浦賀や長崎へ外国船の来たこ とは汝等の知る通りである。もし談判が破裂して戦争となつたな らば如何であらうか。武士は黒燻りとなつて屍を戦場に曝し、農 民は夫役にとられて東西に奔走する。さうなつては商工もその居 に安んずるわけに行くまい。将軍家が武備を厳重にせられるのは、 上一人のためではない、万民のためである。その方共中々安閑と して茶杓を握り、浄瑠璃を語る場合ではなからう。ニケ所ある屋 敷なら一ケ所を売却して献金に宛つるのが、公儀及び祖先に対す る規模であらうと、先づ一同を脅し、更に語調を和らげ、用金と いつても、上納といつても、公儀では区別がない。用金だから下 戻す、上納だから下戻さないといふ訳ではない。しかし上納金と いふのが心細ければ、若干は上納、若干は割下を乞ふ分と、区別 して申出てよろしい。年内余日もなく、犬の手も人の手といふべ き時節である。役所では大晦日でも構はぬが、一日遅れゝば一日 だけその方共の迷惑であらうから、速かに出金高を申出でよとい つてゐます。

 


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