天保度の次ぎは嘉永六年(一八五三)十一月の献金令である。
月番西町奉行石谷因幡守の説明する所によれば、(一)西丸御普
請(二)御大喪・御代替・将軍宣下(三)殊に海防筋に莫大の費
用を要する。この勢ではやがて御用金令が出るであらう。用金令
が出ない内に市民の方から進んで上納を願出でたならば、公辺の
御用途御繰合の一端とならう。平民の身分で公儀の手伝を勤める
のは、其身一人のみならず、子孫の規模にもなることであるから、
精々奮発して出金せよとある。さうして兵庫及び西ノ宮へも同様
の命が下つた。西丸は嘉永五年五月に焼失し、将軍家慶は同六年
六月を以て薨じ、これと前後して米国使節ペリーは浦賀に、露国
使節プーチャチンは長崎に入り、天下頗る多事となつた。
説諭に応じて献金を申出でたものは極めて少数であつた。そこ
で掛惣年寄薩摩屋仁兵衛(比田氏)は、申出を督促し、上納を年
割とするも可なりといひ、漸く請書は揃つたが、金高は案外上ら
ぬ。よつて十二月の二日になつて、掛与力の内山彦次郎から一同
に対し峻厳な訓諭を与へた。曰く、浦賀や長崎へ外国船の来たこ
とは汝等の知る通りである。もし談判が破裂して戦争となつたな
らば如何であらうか。武士は黒燻りとなつて屍を戦場に曝し、農
民は夫役にとられて東西に奔走する。さうなつては商工もその居
に安んずるわけに行くまい。将軍家が武備を厳重にせられるのは、
上一人のためではない、万民のためである。その方共中々安閑と
して茶杓を握り、浄瑠璃を語る場合ではなからう。ニケ所ある屋
敷なら一ケ所を売却して献金に宛つるのが、公儀及び祖先に対す
る規模であらうと、先づ一同を脅し、更に語調を和らげ、用金と
いつても、上納といつても、公儀では区別がない。用金だから下
戻す、上納だから下戻さないといふ訳ではない。しかし上納金と
いふのが心細ければ、若干は上納、若干は割下を乞ふ分と、区別
して申出てよろしい。年内余日もなく、犬の手も人の手といふべ
き時節である。役所では大晦日でも構はぬが、一日遅れゝば一日
だけその方共の迷惑であらうから、速かに出金高を申出でよとい
つてゐます。
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