彦次郎の説諭の後年に見える用金上納金の区別は何としても腑
に落ちません。用金なら返遠の期限や利子の約束がなくてはなら
ぬ。幕府では最初上納金と切出したが一向振はぬので、止むを得
ず一部は上納金、残部は割下を許すとして、上納金と用金との二
口に姿を変へたものと考へます。併しながら用金といふ言葉を使
はず、差加金或は追増金の名を用ひて居る。さうしてその返還法
は追つて沙汰するとあつて頗る心細いものでしたが、兎に角返還
があるといふので少しは人気が直つた。翌安政元年正月になつて
彦次郎はまた一同を呼出し、その方共の申出金額は江戸表から申
越された金高とは大分隔りがある。せめて天保度用金の半額に達
するやうにと勧めて居る。「こゝの処をよく聞きわけて、乍 迷
惑 頭かき\/熟慮致しくれやうよろしうたのむ……斯様の事共
度度の儀にて、此方共も言ふのが口に砂を噛むやうに思へども、
役目の事故是非なき次第」などと甘くいつてゐる。
御買米にせよ、御用金にせよ、町奉行の方から富商豪家を指名
して命ずるのが例でしたが、今度は家持借家人を論ぜず、広く上
納を許し、殊に先般仲間組合の再興を許された御恩に報いんとあ
らば、仲間申合の上、上納するも差支なしと申渡したため、何町
また何仲間と、多人数一団となつて出金した分もある。表面から
見ると如何にも殊勝に見えるが、内実は町年寄家主共が奔走して、
嫌がる借家人を無理に献金仲間に入れたこともあるやうだ。漸く
六七月になつて片付いたのであるが、金額は銀三万六千二百三十
二貫八百九十一匁一分九厘、天保度御用金の二分の一を少し過ぎ
てゐる。尤もこれは大阪ばかりでなく、兵庫并びに西ノ宮町人共
の上金及び追増金を合算した総高で、その内訳は上金一万三百三
十六貫六百八十一匁一分九厘、追増金二万五千八百九十六貫二百
十匁となる。
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