今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜
堂島中二丁目の播磨屋(室谷氏)の記録によると、同家は天保
度には銀六百貫目を出して居るが、此度は三百十貫目で、その中
銀五十貫目は上金高で、一年二十五貫目づゝ安政元安政二の二ケ
年に上納、残り二百六十貫目は追増金高で、毎年三十二貫五百目
づゝ安政三年から八年間に上納といふ約束で、さうしてその証文
の上に上金の二年分(寅卯)と追増高四年分(辰・巳・午・未)
との請取の印がある。その後は請取の印がない。換言すれば都合
六ケ年で打切になつた訳であるが、実は七年目即ち万延元申年
(一八六〇)に新な御用金令が出たからである。
万延元年の御用金令は正月十七日に出てゐる。外国に対する処
置は勿論、各種臨時の用途差輳ひ、殊に本丸再建につき莫大の御
用途故、銘々私情を除き、心力を尽くして請高を申出でよ。償還
に際しては手当銀を交付すべしとあります。併し何時から償還さ
れるか、利子は何分であるか、申渡では一向不明です。嘉永度に
は頭から上納金と触出し、途中から一部分は追増高といふ妙な名
義に変つた。今度は最初から御用金と明白に申渡しながら、償還
期限にも利子の約束にも少しも触れて居らぬ。さういふ曖昧な御
用金が好結果を奏する筈はない。それと知りつゝ幕府が口を嵌ん
でゐるのは、幕府の財政の遣繰が段々無理になつて、見通しが附
かなくなつて来たためであらう。況んや嘉永度追増金はまだ全部
済んでゐない。播磨屋の例を見るとまだ四年分残つてゐる。そこ
へ新規の御用金であるから、民間で人気の立たぬのは当然です。
町奉行所の方では御用金指名者以外に、個人でも、仲間でも、志
あるものは金高を申出でよ、現金の代りに手形で納めてもよい、
年賦も許すと色々便利を計つてゐる。播磨屋が三十貫目三ケ年賦
上納を申出でると「何を申出侯や、全く間違にて可 有 之、とく
に勘弁之上、碇と本の事を申出づべし」と叱付けて居る。そんな
次第で請高が容易に決定せず、やつと五月になつてあらまし決定
した。総計六万八千百四十七貫目、この口数九百六十一口で十ケ
年賦である。今度の用金にも内山彦次郎が掛を勤めて居る。彦次
郎は大塩平八郎の騒動の時、抜群の手柄があり与力としては仲々
の遣手でしたが、後に浪士のために暗殺されました。
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