Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.22

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その118

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第六 御用金 (8)管理人註

播磨屋の記 録 万延元年の 御用金

今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜  堂島中二丁目の播磨屋(室谷氏)の記録によると、同家は天保 度には銀六百貫目を出して居るが、此度は三百十貫目で、その中 銀五十貫目は上金高で、一年二十五貫目づゝ安政元安政二の二ケ 年に上納、残り二百六十貫目は追増金高で、毎年三十二貫五百目 づゝ安政三年から八年間に上納といふ約束で、さうしてその証文 の上に上金の二年分(寅卯)と追増高四年分(辰・巳・午・未) との請取の印がある。その後は請取の印がない。換言すれば都合 六ケ年で打切になつた訳であるが、実は七年目即ち万延元申年 (一八六〇)に新な御用金令が出たからである。  万延元年の御用金令は正月十七日に出てゐる。外国に対する処 置は勿論、各種臨時の用途差輳ひ、殊に本丸再建につき莫大の御 用途故、銘々私情を除き、心力を尽くして請高を申出でよ。償還 に際しては手当銀を交付すべしとあります。併し何時から償還さ れるか、利子は何分であるか、申渡では一向不明です。嘉永度に は頭から上納金と触出し、途中から一部分は追増高といふ妙な名 義に変つた。今度は最初から御用金と明白に申渡しながら、償還 期限にも利子の約束にも少しも触れて居らぬ。さういふ曖昧な御 用金が好結果を奏する筈はない。それと知りつゝ幕府が口を嵌ん でゐるのは、幕府の財政の遣繰が段々無理になつて、見通しが附 かなくなつて来たためであらう。況んや嘉永度追増金はまだ全部 済んでゐない。播磨屋の例を見るとまだ四年分残つてゐる。そこ へ新規の御用金であるから、民間で人気の立たぬのは当然です。 町奉行所の方では御用金指名者以外に、個人でも、仲間でも、志 あるものは金高を申出でよ、現金の代りに手形で納めてもよい、 年賦も許すと色々便利を計つてゐる。播磨屋が三十貫目三ケ年賦 上納を申出でると「何を申出侯や、全く間違にて可之、とく に勘弁之上、碇と本の事を申出づべし」と叱付けて居る。そんな 次第で請高が容易に決定せず、やつと五月になつてあらまし決定 した。総計六万八千百四十七貫目、この口数九百六十一口で十ケ 年賦である。今度の用金にも内山彦次郎が掛を勤めて居る。彦次 郎は大塩平八郎の騒動の時、抜群の手柄があり与力としては仲々 の遣手でしたが、後に浪士のために暗殺されました。

 


「江戸と大阪」目次2/その117/その119

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ