万延度の御用金高は天保度のそれに達した。併しこの金額が新
に大阪町人の懐から出るものと思つては大間違で、この中に嘉永
度の追増金が含まれてゐる。安改元二(寅卯)に差出した二年分
は上金であるから、勿論幕府は取放しでよいが、安政三・四・五・
六(辰・巳・午・未)四ケ年分は追増高であるから幕府の借金で、
幕府はこれを返却すべき義務を有してゐる。そこで幕府は万延度
御用金の請高中に前記四ケ年分の金高を包含せしめ、特に市民に
諭して辰巳ニケ年分を献金に改めしめて債務を帳消とし、午未二
ケ年分を万延度御用金の第一回分(申年分)に振替へしめ、残余
を九ケ年間に分割上納せしめることゝした。即ち万延度御用金総
高の中から安政辰・巳・午・未の四ケ年分を減じた残額が、新に
町人の負担となる訳である。嘉永度追増金の未納額四回分は勿論
免除で、これで嘉永度の上金追増金一件は全く帳消となつた。
万延度の御用金は右の如き始末で、文久元年(酉)に第二回分、
二年(戌)に第三回分、三年(亥)に第四回分を納めた所、そこ
へ又元治元年(一八六四)の御用金令が下つた。これは第一回長
州征伐の軍用金に充てるためであつたから、大急ぎで決定した。
九月中旬に呼出して翌月の中旬に決定した。呼出した人数も百余
名といふ少数で、当十月より明年五月まで月割を以て上納せよと
命じ、それに一年四朱の御手当を下さると申渡した。上納期限と
いひ、利率といひ、前例破りである。かくて銀高二万六千九十五
貫目、この口数百四口は迅速に定まつた。然し是等の人人は一方
には万延度御用金分割上納の義務を背負つてゐる。子丑両年は万
延度の年割上人と今度の月割上納と両方とも納めねばならぬ。難
渋この上ないといふ彼等の歎願を容れ、万延度の二年分を後廻し
とした。即ち万延度第五回分及び第六回分(元治元子年分・慶応
元丑年分)上納の一時延期を許し、第七回分以下第十回分を予定
の如く上納した後で上納することとした。
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