Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.24

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その120

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第六 御用金 (10)管理人註

万延度元治 度御用金の 決済 慶応二年の 御用金 時勢日に非 なり 請高の内容

 元治の御用金は慶応元年五月に滞なく済んだが、長州二度目の 征伐で、幕府はまた御用金の手段に由らねばならぬこととなつた。 当時幕府が大阪町人に対する負債を挙げて見ると、第一は文化度 天保度御用金償還残額で、これは慶応元年十二月に第十九回分を 払つてゐるから残が十六回分ある。第二が万延度御用金の既納四 回分、第三が元治度御用金の全額である。そこで幕府は慶応二寅 年(一八六六)四月に一同を召喚し、万延度御用金四回分及び元 治度御用金全部は償還する。前者に対しては二朱、後者に対して は四朱の利息を加へ、何れも上納の時から去年十二月迄を期限と し、月割で利息を数へ、残らず払戻す。また万延度御用金中本年 以後上納の分、或は渡世衰微による延滞等、未納高はすべて免除 するから有難く心得よと申渡した。万延度御用金の償還期限や利 子については追つて沙汰するとあつて、実は一向音沙汰がなかつ たし、元治度御用金の利子は四朱といふ点だけは判明して居るが、 償還期限は明言されて居なかつた。それが一時に両方共元利金を 揃へて下渡し遣はす、また未納額は免除するといふのであるから 有難いに相違ない。然しその申渡の後半には恐しい新規の御用金 が控へて居た。その要領を摘むと、天保以後度々の災害あり、そ の上近年天下の形勢容易ならず、将軍家両度の上洛、引続き今般 御進発にて、当地御在城数ケ月に及び、彼是臨時の費用少からず。 よつて已むを得ず当地・兵庫・西ノ宮の町人に御用金を命じ、金 高を割渡すにより、銘々心力を尽くし、他に斟酌なく請高を申出 せ。尤も請高は当年中に月割上納とし、明年より三十ケ年賦償還、 利子は年二朱と定め、摂・河・泉・播の御収納金を以て下渡すと ある。償還金の出所を説明したことは破天荒 である。  幕府は内政外交二つながら必死の場合である。是より先き英・ 仏・米・蘭四国艦隊は兵庫に碇泊し、條約勅許その他の問題を提 げて幕府に肉薄した。條約勅許は下りたが、兵庫開港は禁ずとの 御汰沙で、困難は依然として残つて居る。長州問題はどうしても 兵力によつて解決せねばならぬ勢となつて居た。京阪地方には多 数の人々が入込むので、諸物価は騰貴一方である。五月上旬には 兵庫・西ノ宮・伊丹・池田辺に打壊が起つて、それが大阪へ伝染 する。紛々擾々鼎の沸くが如しともいふべき時代であるから、御 用金のことも一向捗取らぬ。督促は矢よりも烈しい。曰く、請高 を増加せよ、上納期限を短縮せよ、主人自ら出頭せよ、身分不相 応の銀高を申上げ、万一御上から身代闕所の命が下つても、その 節に至つて執成して遣はさぬぞといふ。播磨屋仁三郎の如きは、 何度となく叱られてはその都度多少金高を増し、八回目で漸く請 書が納まつた位である。七月に至つて全部の請高が定まつた。合 計銀十七万八千七百八十四貫目百目、この口数一千百八口、銀高 においても人員においても記録破りで、中には五貫目・七貫目・ 十貫目といふやうな少額もある。尤もこの総額の中には万延度御 用金四回分と元治度御用金全部とが入つてゐるから、これで万延 元治両度の御用金は帳消となつた訳である。従つて実際新規に出 すべき分は、この二口を総額から減じた額である。然るに元治の 銀高は分つてゐるが、万延四回の銀高が判明しない。両方を合し てざつと五六万貫目と思ふ。して見れば十一二万貫目が新規に市 民の懐中から出る筈です。

 


「江戸と大阪」目次2/その119/その121

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ