間もなく長州征伐は破裂した。在阪の将軍家茂が病気であるた
め、一ツ橋中納言慶喜が名代として出陣するといふ始末であるが、
肝要の軍用金が足りない。そこで八月になつて町人共を町奉行所
に呼出した。町人の方では先日漸く御用金の請高が済んだのであ
るから、定めし御褒美でも出るのだらう位に思つて出た所、意外
にも用金請高中万延度元治度の引直分を除き、実際新規に勤める
半高を至急上納せよ、右上納は百目立で正金を上納せよといはれ
た。一体今度の御用金は最初当年中月割上納とあつたが、愈々請
書を纏める段になつて、三ケ年賦納を許された例もある。今にな
つて眉に火のつくやうに半高急上納を命ぜられては、上納者の難
儀の一方ならざることはいふまでもない。殊に当時の相場は金一
両に銀百三十目位であるのに、百目立で正金を上納しては、みす
\/一両に三十目の損をする。二重の難儀である所から彼等は色々
哀訴嘆願したけれども一向效目がない。それ程愚図\/いふなら
当地に安住させて置くのも無益だから退去を命ずるぞと脅かされ、
泣く\/半高を納めた。その金高五十一万八千四百六十二両、口
数三百四十四軒とある。それから残りの半高はどうかといふと、
これも押問答の末、十二月に一度取立て、残りは二ケ年間毎月月
割で納めるといふ約束で慶応三年十一月迄は納めた証拠がある。
十二月になるともう大変な騒ぎで、残額は臨時上納の手形に書改
めさせ、翌四年正月には四・五・六日市中大騒擾の際に、町奉行
所附近の分は烈しく取立てたといふ話ですが、併し先づ十一月で
打切と見るのが至当でせう。
要するに御用金は償還せらるべきものであるのが本則で、幕府
が潰れたために償還不可能となつたのは、文化度天保度御用金三
十五ケ年下戻の分、これは慶応三年まで二十一回分払つてゐるか
ら、残りの十四回分約二万五千貫目と、慶応度御用金の中、慶応
三年十一月迄に取立てた分、この方は正確な数字を得ないが大約
十三四万貫目、二口合して十六七万貫目ばかりが、幕府に対する
貸倒れとなつてしまつた。
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