Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その121

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第六 御用金 (11)管理人註

半高急上納 大阪に残し た幕府の債 務

 間もなく長州征伐は破裂した。在阪の将軍家茂が病気であるた め、一ツ橋中納言慶喜が名代として出陣するといふ始末であるが、 肝要の軍用金が足りない。そこで八月になつて町人共を町奉行所 に呼出した。町人の方では先日漸く御用金の請高が済んだのであ るから、定めし御褒美でも出るのだらう位に思つて出た所、意外 にも用金請高中万延度元治度の引直分を除き、実際新規に勤める 半高を至急上納せよ、右上納は百目立で正金を上納せよといはれ た。一体今度の御用金は最初当年中月割上納とあつたが、愈々請 書を纏める段になつて、三ケ年賦納を許された例もある。今にな つて眉に火のつくやうに半高急上納を命ぜられては、上納者の難 儀の一方ならざることはいふまでもない。殊に当時の相場は金一 両に銀百三十目位であるのに、百目立で正金を上納しては、みす \/一両に三十目の損をする。二重の難儀である所から彼等は色々 哀訴嘆願したけれども一向效目がない。それ程愚図\/いふなら 当地に安住させて置くのも無益だから退去を命ずるぞと脅かされ、 泣く\/半高を納めた。その金高五十一万八千四百六十二両、口 数三百四十四軒とある。それから残りの半高はどうかといふと、 これも押問答の末、十二月に一度取立て、残りは二ケ年間毎月月 割で納めるといふ約束で慶応三年十一月迄は納めた証拠がある。 十二月になるともう大変な騒ぎで、残額は臨時上納の手形に書改 めさせ、翌四年正月には四・五・六日市中大騒擾の際に、町奉行 所附近の分は烈しく取立てたといふ話ですが、併し先づ十一月で 打切と見るのが至当でせう。  要するに御用金は償還せらるべきものであるのが本則で、幕府 が潰れたために償還不可能となつたのは、文化度天保度御用金三 十五ケ年下戻の分、これは慶応三年まで二十一回分払つてゐるか ら、残りの十四回分約二万五千貫目と、慶応度御用金の中、慶応 三年十一月迄に取立てた分、この方は正確な数字を得ないが大約 十三四万貫目、二口合して十六七万貫目ばかりが、幕府に対する 貸倒れとなつてしまつた。

 


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