Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その122

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第六 御用金 (11)管理人註

江戸町人の 上金 * 弘化元年五 月江戸町人 の御用金を 命ず惣金高 二十万二千 五百両とい ふ

    *  江戸の御用金に関する史料は少い。併し献金はあります。江戸 城は明暦三年の大火で本丸・二ノ丸・三ノ丸が一時に灰燼となつ て以来、久しく火事沙汰を聞かなかつた所、天保九年三月西丸か ら火が出て、殿中向残らず焼失に及んだので、幕府は再建に着手 するに方り、御三家を始めとし、万石以上以下に普請助成を命じ た。公儀の土木工事に諸大名に助役を命じた前例はあるが、万石 以下に高割を以て上納を命じたことは曾つてない。かゝる新例を 開いたのも畢竟幕府の財政が苦しいからでせう。この時江戸の豪 商九人から計七万両、浅草蔵前の札差仲間八十三人から計十万八 千二百両を献上してゐますが、これが例となつたと見え、弘化元 年五月本丸が炎上した時も、亦江戸の町人共から献金をしてゐる。          ニンベン 瀬戸物町の鰹節問屋イの伊兵衛を皮切りとして出願人数は可成多 数であつたが、金高は十一万三千六百十両といふのですから、前 回より遥に劣つてゐる。それから嘉永五年五月に西丸がまた焼け た。勝伯の吹塵録に以上三度の御普請入用を掲げ、それに附言し て「天保度は経費百三拾七万余にして納金百七拾万余に及び弘化 度は経費百七拾五万余にして納金七拾万余に止まり、嘉永度に至 りては経費百五万余にして納金纔に大名出金拾壱万余而已、亦以 て時勢の変遷を見るに足るべし」といはれてゐます。  火事は以上三度に止まらず、安政六年十月に本丸、文久三年六 月に西丸、同年十一月に本丸及び二ノ丸が焼けてゐる。天保九年 以後から数年毎に火事があつては、幕府も大名も旗本も町人もと ても遣り切れるものでは無い。内治に外交に幾多の困難を重ねて ゐる幕府に対しては、祝融氏の御見舞すら頻繁であつた。所謂運 の尽きる所だと考へます。

勝伯は
勝海舟
のこと

















祝融は
火事の
こと


  


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