江戸町人の
上金
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弘化元年五
月江戸町人
の御用金を
命ず惣金高
二十万二千
五百両とい
ふ
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江戸の御用金に関する史料は少い。併し献金はあります。江戸
城は明暦三年の大火で本丸・二ノ丸・三ノ丸が一時に灰燼となつ
て以来、久しく火事沙汰を聞かなかつた所、天保九年三月西丸か
ら火が出て、殿中向残らず焼失に及んだので、幕府は再建に着手
するに方り、御三家を始めとし、万石以上以下に普請助成を命じ
た。公儀の土木工事に諸大名に助役を命じた前例はあるが、万石
以下に高割を以て上納を命じたことは曾つてない。かゝる新例を
開いたのも畢竟幕府の財政が苦しいからでせう。この時江戸の豪
商九人から計七万両、浅草蔵前の札差仲間八十三人から計十万八
千二百両を献上してゐますが、これが例となつたと見え、弘化元
年五月本丸が炎上した時も、亦江戸の町人共から献金をしてゐる。
ニンベン
瀬戸物町の鰹節問屋イの伊兵衛を皮切りとして出願人数は可成多
数であつたが、金高は十一万三千六百十両といふのですから、前
回より遥に劣つてゐる。それから嘉永五年五月に西丸がまた焼け
た。勝伯の吹塵録に以上三度の御普請入用を掲げ、それに附言し
て「天保度は経費百三拾七万余にして納金百七拾万余に及び弘化
度は経費百七拾五万余にして納金七拾万余に止まり、嘉永度に至
りては経費百五万余にして納金纔に大名出金拾壱万余而已、亦以
て時勢の変遷を見るに足るべし」といはれてゐます。
火事は以上三度に止まらず、安政六年十月に本丸、文久三年六
月に西丸、同年十一月に本丸及び二ノ丸が焼けてゐる。天保九年
以後から数年毎に火事があつては、幕府も大名も旗本も町人もと
ても遣り切れるものでは無い。内治に外交に幾多の困難を重ねて
ゐる幕府に対しては、祝融氏の御見舞すら頻繁であつた。所謂運
の尽きる所だと考へます。
| 勝伯は
勝海舟
のこと
祝融は
火事の
こと
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