今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜
大阪に於ける御用金の最初は宝暦度で、宝暦十一年(一六七一)
十二月から翌年正月に亙り、三度に分けて大阪の町人二百五人に
百七十万三千両の御用金を指定した。この際江戸から目付三枝帯
刀勘定吟味役小野一吉等一行十六名が大阪に乗込んで来ましたが、
肝要の申渡は至極簡単で、其方共米相場引上のため厚き思召を以
て御用金を仰付けらる。冥加至極と心得早速請書を差出せとある
だけです。
大金ではあるし、年末ではあるし、米相場は乱高下を呈する。
御用金を申付けられたものは急に今迄の貸付金を督促し、新規の
貸出を絶対に謝絶する。問屋は送つた荷物を荷主に突返す、市中
一体に急に倹約を始め、奉公人を減らすやら、年末年始の礼を廃
するやら、上下共大騒ぎで、漸く請高は七十万両位に達した。幕
府の方でも如何ともなし難く、二月下旬上納未済の分を免除して
しまつた。
この御用金の処置を見ると、一方で金額を収入すると、一方で
これを三郷町中に貸付けてゐる。貸付高は一町二千六十両といふ
のが通例で、少い町は九百四十両といふのもある。利子は一ケ月
一朱で毎年七月十二月の二回に支払ふ。それから元金は何時でも
町奉行所の命令次第返却すると認めた証書を二通―一通は元金の
三分ノ二(千三百七十四両)他の一通は三分の一(六百八十六両)
―を作り、町々から用金上納者に宛てゝ出す。それから町奉行所
に宛て同様二通の証書を出し、一通には千三百七十四両で去年の
米切手を買入れ、切手の売主の名前・産地・石高・代銀等を届出
づること、残りの六百八十六両を月一朱半以内で相対で希望者に
貸付ける旨を認めてある。他の一通には米切手を質入したり、蔵
出して他国に売渡す時は、必ず町奉行所の承認を経ること、他国
に売払はない米は何時迄も町奉行所の差図あるまで保管すること、
買替の時期を誤つて損失を招いても、その町で負担すること等が
認めてある。
二月下旬に用金未済額を打切ると同時に、買米は奉行所の許可
を得て自由に市外に売捌いて宜しい、貸付金の三分ノ二には利足
を添へて奉行所に差出せよ、残り三分ノ一はそのまゝ据置くとい
ふ命令が出た。米価は御用金令によつて確に一時騰貴したが、二
月以後はだれ気味となり、筑前米はどうしても五十目台を抜くこ
とが出来なかつた。町奉行は躍起となつて用金上納者町々年寄等
を召し、何故に米価があがらぬか、その原因を申出でよ、愈々下
直ならば再び買米を命ずるぞと脅してゐる。今数字によつてこれ
を証明すると、
十一年十二月二十四日 十二年正月十九日
匁 匁
肥後米 四九位 七〇
筑前米 四五.一 ― 四五.二 六八―六九
鹿島米 四〇.一 ― 四〇.二 六二―六三
かく一旦は騰貴したが、その後再びもとの相場に戻つてしまつた。
町々では多少の損失をして買米を売払ひ、兎に角貸下銀の三分
の二は利息を添へて町奉行所へ返還し、町奉行所から改めて用金
上納者へ返却したので、その方は済んだが、残りの三分ノ一に困
つた。これは諸大名に貸付けて居る分で、町町から催促しても仲々
埒があかぬ。どうか証文を金主に差出すから、金主と諸家との直
接の貸借関係にして貰ひたいと町々から申立て、尤もな事である
から町奉行所の方でもこれを許可した。爾来諸侯は町奉行所に返
金し、奉行所からそれを金主に渡す手筈であつたが、さて一向に
返へらぬ。金主共から幕府に願立てたが、幕府でも致し方なく、
延滞の利足を元金に加へて無利足年賦納とした。その年賦は長い
ので二百年百五十年賦、一番短いので十年賦といふ始末で、結局
町人の泣寝入に終つた。
以上によつて宝暦の御用金は買米令の変態であることが分る。
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