Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.12.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その131

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第七 米 (9)管理人註

後藤縫殿助 の米切手改

 天明二年に官銀入替法がやんだのは、幕府の呉服所後藤縫殿助 なるものゝ願によつて、新に同人に米切手改兼帯役を命じたから である。縫殿助において蔵屋敷と米切手所有者との間の紛議の調 停を取扱ふ。即ち依頼により双方の意を問ひ糺した上、年賦返済 の法を立て、その年賦額に当てた米は縫殿助に断らずに諸家で売 ることは絶対に出来ない、又何人もこれを買請けてはならぬ、併 し残部は諸家で随意に売払つてその家々の勘定を立てる、手数料 としては取扱銀高一貫目につき一匁を町人から支払ふべしといふ のである。町人の方では縫殿助に依頼するものも出来たが、相手 方の蔵屋敷の方では一向貪著なしにどしどし払米をする。それで は仮りに切角談判がついても、年賦米に当てるものがなくなる訳 ですから、縫殿助から書面を以て現在紛議中の十二蔵の払米中止 を申立てた。これといふのも元来が強制的でなく、貸借双方から 依頼があればといふやうな生温い規定の齎した結果であるといふ 議論で、翌天明三年十一月断然強制的にしてしまつた。(一)安 永二年七月以後発行の切手はすべて縫殿助の加印を受けよ、加印 なきものは売買することを許さず、又加印なき切手を以て出訴す るとも受理せず。(二)紛議中のものは縫殿助より調停し、同答 期日を定め、これを承諾せざるものは町奉行所にて審理し、正米 切手ならば蔵出せしめ、調達切手ならば返済せしめる。(三)縫 殿助の加印は本日より三日を経て開始す。これを請ふものは印料 として一石につき銀一分を上納すべしといひ、一方には米方年行 司に命じて、入津廻米を見分せしめ、毎日の蔵方の払米高出米高 を縫殿助に届出でしめ、また蔵屋敷においても町奉行所へ届出の 上払米看板を掲げることゝした。  この命令が出てから蔵屋敷も浜方も非常な動揺で相場が立たな い。諸家では国々へ急使を派して問合せるやら大変な騒ぎで、一 時臨時の仕法を立てたが、結局また仕法替となつた。  今度は縫殿助の米切手印、米方年行事の廻米入津の臨検、蔵屋 敷の払米掛札届出を廃し、これに代ふるに、(一)入札を以て諸 家の払米を買請け、代銀の取引が済んで切手を受領したならば、 買主は石高・代銀等を米方年行事に差出し、年行事は更に縫殿助 に届出る。縫殿助の方では自分の帳面にそれを書留め、届書と帳 簿とに押切印を押して返付する。手数料として一石につき銀一分 三厘を徴し、その三厘は浜方に与へる。(二)安永二年以後の調 達切手を所有するものもこれに準ずる。(三)すべて縫殿助の帳 簿に見えず、また縫殿助の押切印を施した届書のない分について は、訴状を受理せずとあつた。天明四年十一月のことです。一石 につき一分三厘といへば僅少に聞えるが、一年三百万俵以上の取 引があるから、大した銀高で、米仲買の方では印料や届出の手数 を考へて、それだけ安く入札する。結局は諸家の迷惑となるとい ふので、田沼が没落してから間もなく廃止となつた(天明七年正 月)。一体田沼時代には「公儀の御益」と称して色々新規な事柄 を願ひ出で私腹を肥したものが多い。それが冥加銀や運上銀を出 して許可となつて居る。縫殿助が米切手改役を兼帯し、印料を取 りながら、その中から幕府に冥加金を出さぬことはなかつたらう と思はれる。蔵屋敷と買主との双方の便宜を計るといふのは名儀 上の理由で、内実は幕府も縫殿助も大いに利する所あらんとした に相違ない。それなればこそ田沼が没落すると間もなく廃止せら れたのであらう。  長い間安かつた米価は、天明二年は不作、翌三年は気候不順の 上に、浅間山の噴火などがあつて、関東地方が大分痛んだため高 くなつた。そこへ前述の通り米切手改が強制的となり、また両替 屋に新に役金が賦課せられた。

 


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