今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜
両替屋には切金軽目金といつて、目方の足りないものや、裂け
たり、切れたりした金貨が集まる。それを金座へ持参し、手数料
を納めて良いものと換へて貰ふ。その手教科を予め役金として納
めよ。その代り無料で良い金と引替へてやるといふ訳で、江戸の
両替屋の役金が彼此一万両、大阪の両替屋の役金が二万両であつ
た。米切手改が強制的になつたために米相場が中止したやうに、
役金令の励行によつて金相場が中止となつた。
大阪で米相場と金相場とが立たなければ売買の標準が立たない。
即ち売買一切中止といふ姿で、市場は大した動揺です(この役金
は天明七年十二月に廃止された)。漸く市場が立会つて見ると、
米価は高く、翌年になると愈々高くなつた。米仲買を捕縛したり、
米穀の他所売を禁止したり、仲々波瀾があつた。しかし四年五年
はまた豊作で米価が下落した。米仲買は縫殿助の米切手改を考慮
に入れて蔵米を安値に入札するため、諸家は迷惑一方ならず、借
金の返済が出来ない。銀主はそれに懲りて新規の貸付を手控へる。
どうとも仕方がなくなつてまた御用金といふことになつた。
今度の御用金は米価の釣上を目的としたのではなく、諸家の救
済を主として居る。併し幕府もその間に立つて利することを忘れ
はしなかつた。即ち大阪町人から差出した金額を直ちに彼等に貸
付ける。彼等はこれを年七朱の利息で諸大名に貸付け、さうして
その中の一朱を幕府に上納する。諸家は借用金高に応じて領分の
田畑を引当とし、万一返済が延滞すれば、附近の代官でその田畑
を預つて、それから生ずる年々の収入を貸方に廻すといふ仕組で
す。この御用金令の出たのが天明五年の十二月で、翌年になつて
出金の督促が段々烈しくなつた。町人の身にとつては、幕府が元
金利息の支払を保護してくれるのだから、確実な訳であるが、そ
れはこれから貸す金の話で、現在金融が詰まつてゐるのは、前の
貸金がとれないからである。然るに幕府は前の貸付金と今度の貸
付金とを全然区別し、前の貸付金を以て今度の貸付金に振替へる
ことを許さないから、町人は頗る困却した。請書だけは出したが、
貸付は思ふ様に進まなかつたといふが、これはさもあるべきこと
である。この時の人数や請高や貸付金額が判明しないのは頗る遺
憾です。
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