幕府は更に一歩を進めて天下一統に御用金を課すこととした。
これは天明六年六月で、(一)諸国の寺社山伏は毎年上の部金十
五両、余はそれに準じて差出せ。(二)御料私領の百姓は持高百
石につき銀二十五匁づゝ、また(三)同町人(但し大阪で先般の
用金を差出した者を省く)は間口一間につき地主より三匁づゝを
差出せ。これを五ケ年間継続の上、それに幕府の金を加へ、大阪
表へ立てる貸付会所の手を経て諸家へ利息七朱で貸付け、担保と
しては或は大阪表通用の米切手を入れしめ、或は領分の田地を相
応に書入れしめ、万一返済が滞つたら、米切手は蔵出を命じ、村
高は附近の代官にて預り、その収入を以て返済に充てる。出金者
に対しては五ケ年の継続期を過ぎてから元銀を返すは勿論、七朱
の利息の中、会所の入用を除き、残額は元金と同時に下さるとい
ふ申渡である。而もその申渡から二十日以内に第一回分を出金せ
よといふ火急な命令であつたが、どうしても二十日では集まらな
いので五十日といふことになつた。然るに七月には江戸に大洪水
があつて大川の橋々が落ち、つゞいて将軍家治の薨去となり、田
沼一派の貶 となり、政局が一変したので、天下一統の御用金令
も大阪の富商豪家に対する御用金令も取消となつてしまつた。
前に一言した通り田沼時代は腐敗堕落の時代だと一概に言ふ人
もあるが、経済史上には興味ある現象が前述の如く沢山ある。幕
府は財政の行詰りから脱却しようとして色々なことをやつた。貨
幣の方では五匁銀といつて目方五匁の銀貨を鋳造し、時価の如何
にかゝはらず、その十二枚を以て金一両に通用せしめ、今まで目
方でばかり量つた銀に価を附けた。即ち計数貨幣を作つた処、そ
れが更に一転して南鐐二朱となり、名前まで明らかに銀貨たるこ
とを示すやうになつた。その外真鍮の四文銭を鋳たり、支那・西
蔵・安南・和蘭その他の外国金銀貨を輸入したりしてゐる。宝暦
から天明へかけて輸入の金が百六十七貫目、銀が八千二百十六貫
目といふ数字がある。印旛沼の掘割や吉野の金鉱採掘に着手した
のみならず、蝦夷即ち北海道を開拓しようとしたり、銀座・真鍮
座・人参座・龍脳座といふ風に専売の役所を作つて見たり、また
冥加金運上銀をとつて色々な株仲間、例へば本書の最初に述べた
家質会所の如きものを作つて見たりした。その大部分は失敗に帰
し、田沼が倒れて松平定信が政治を握るやうになつてから廃止せ
られてしまつたが、兎に角新しい色々な試みをした興味ある時代
だと思ふ。
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