Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.12.31

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その136

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第七 米 (14)管理人註

江戸堀三丁 目の米市場 米に関する 諸株

 大阪には堂島市場の外に江戸堀三丁目の米市場がある。明和元 年(一七六四)相模屋又市に許可せられたもので両替株十軒仲買 株三百軒を有し、冥加金は年四百両であつた。この市場の売買法 は委しくは解らぬ。堂島市場の如く、正米并びに帳合商を行ふと あるが、併し正米売買の如きは表面の名目であつて、実際は飛脚 を以て堂島の米相場を移し、直間銀の勝敗を目的とした。その相 場の移し方に色々の手段を用ひたと見え、安永六年(一七七七)              ミブリイロシナ の達書に、近来抜商と称へ、身振色品を以て相場の高下を合図す るものがある。向後右体の所業をするものがあらば、捕縛の上処 分すると申渡し、その後も度々同様な禁令が出た。身振色品とい ふのはどんなことをしたか知れませんが、手で合図をしたり、旗 で合図をしたものでせう。天明三年(一七八二)の禁令に「抜商 と唱へ、右高下を記し、鳩の足へ括付相はなし」云々とある。今 いふ伝書鳩は百数十年前にもう使用されてゐる。私も旗で合図す ることは目撃致しました。仲買店の屋根の火の見の上から大きな 白い旗を右に廻し左に廻し、廻す度数がそれ\゛/違つてゐる。 それを数里を隔てた河内辺の山上で望遠鏡で見て、またそれを数 里を隔てた所へ移す。結局電信より早く目的地へ相場を知らせ得 るさうです。この江戸堀の米市場の分店が一時は道頓堀久左衛門 町と東天満とにあつたさうですから、相応売買もあつたのでせう が、幕末には江戸堀の分さへたゞあるといふだけで、米仲買十四 人米方両替三人となつてしまつた。  この外米に関する諸株には、上問屋上積問屋株及び駄売屋搗米 屋株等があつたが、株式になつたのが田沼時代であり、従つて田 沼没落後、引続いて廃止となつた。  蔵屋敷に到着する諸藩の物産を蔵物といふが、之に対して納屋 物といふ文字がある。大名の米なら蔵米といひ.百姓の米なら納 屋米といふ。蔵または納屋の文字を以て上下を区別したのでせう。 株仲間を立てゝ納屋米を引請けたいといふ出願が田沼時代に再三 あつたが、天保六年に至り納屋物雑穀問屋といふ名で遂に株が許 可された。それからずつと下つて慶応二年になつて納屋物雑穀仲 買仲間も出来た。

 


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