大阪表正米
切手注文取
次所
伊勢町米立
会所
水戸家の米
立会所
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江戸では既に述べた如く享保十五年に米延売切手売会所、延享
元年に米相場吟味所が出来たが、どちらも一年もたゝない中に取
潰しとなつてしまつた。それから天明五年に大阪表正米切手注文
取次所といふものが出来し、大阪の蔵屋敷の切手を取次ぐことを
以て、会所設立の趣旨としたが、併し実際の遣り方を見ると、注
文主から米百石につき五両の敷金を請取り、大阪で米切手を買入
れ、更にこれを転売し、手数料として百石につき銀十五匁を貰ふ
といふのですから、どうしても帳合米の遣り方で、これも設立の
翌年に中止となつて居る。江戸の米切手は文化九年(一八一二)
に仙台藩で発行したのが第一で、それ以前江戸で取扱つた切手と
いへば皆大阪の米切手です。
天明から殆ど三十年を経て文化十年(一八一三)に伊勢町の米
立会所が出来た。これは三橋会所の頭取杉本茂十郎の出願にかゝ
り、米価釣上のために許可せられた。一体文化年間は米価が安く、
文化三年にも七年にも大阪町人に買米令が下り、十年には御用金
令が下つた。それらの事情は委しく述べれば際限がないが、この
十年の御用金令は諸侯の廻米高を二割減とし、更にそれを半減す
る、即ち十分の四だけに止め、それで米価を釣上げる。然し廻米
高の減少は諸侯の収入を減ずるから、それを補ふために諸侯に拝
借金を許し、大阪町人に命じた御用金をこの拝借金に振向けよう
といふ意味です。かゝる有様を見込んで茂十郎は米立会所の設立
を出願し、冥加として年に金千両を納め、仲買株百二十人を許さ
れ、武蔵中米を建物とし、六十日を期限として延売買をやつた。
表面は正米売買を標榜して起つたのであるが、実は帳合米の取引
で、文政二年(一八一九)に遂に停止となつた。
伊勢町の立会所設立は江戸に於ける米相場隆盛の発端で、水戸
家の米立会所は文化十三年本所一ツ目石置場の同家蔵屋敷内に置
かれ、それを嚆矢として仙台・越前・尾州・紀州等諸家蔵屋敷内
の米相場が起つた。
一体江戸は大阪の様に諸国米穀の集散地といふ程ではないが、
諸家の屋敷には多数の武士が居る。それに扶持米が当然輸送せら
れる。扶持米の外にもまた江戸市民の需要に応ずるために多数の
米穀が諸国から入つて来る。それらを合計すれば多分の石高であ
らう。諸家の払米は町人の蔵元がこれにあたつた。水戸家では町
人蔵元の意見に従つて、伊勢町のやうに米売買をしたいといふの
が出願の趣旨で、要するに伊勢町会所の真似をしたのであるから、
伊勢町会所で立会を止められると水戸家の会所も立会を止められ
た。
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