Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.1.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その138

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第七 米 (16)管理人註

仙台藩の米 立会所 尾州払米捌 所 紀州払米捌 所 武州会所 本場商と日 仕舞商 小場商

 諸家の中で最も多量の米穀を江戸へ出したのは仙台で、仙台藩 が江戸へ送る米大豆は一年二十万石といひ、外の藩々より格段に 多い。仙台藩は文化九年に米切手の発行を幕府から許されて居る。 国元から輪送した米を川岸八町の米仲買に命じて入札させ、落札 した者に先づ米切手を渡し、それと引替に正米を蔵出しする。一 口即ち切手一枚は二十俵でした。伊勢町や石置場の立合が始まつ てから、深川仙台堀の蔵屋敷でも矢張り米相場があつたが、これ は正米売買の傍にやるので決して延売買を専門としたのではない。 然るに天保十三年になつてこれが禁止されてゐるのは、次に述べ る尾州家・紀州家・及び武州会所の空米売買禁止のお相伴を食つ たのである。  尾州払米捌所 尾州家では年々収納米の中二三万石を江戸へ廻 し、扶持米を支払ひ、残余は売払つて居たが、文政六年(一八二 四)仙台藩の例に倣つて切手売の許可を得、続いて九年更にその 売捌方を町人の蔵元に託し、それから空米相場をやることになつ た。蔵屋敷の場所は最初は築地にあつたが、後には蠣殻町に移つ た。  水戸家でもこれに倣つてまた立合を始めたが、天保十三年に廃 止され、その後幕末にまた起つた。これは深川油堀蔵屋敷で立会 をやつた。  紀州払米捌所 江戸廻米の残余凡一万石を切手売にするといふ のが趣意で、文政十年(一八二七)に許された。それから紀州家 の蔵屋敷でも空米相場が行はれた。蔵屋敷は最初八丁堀にあつて、 後に浜町に移つて居る。  諸家収納米引請元(武州会所) これは文政十三年(一八三〇) に許可になつた。この願人は浅草諏訪町大和屋太右衛門といふも ので、冥加金年五十両を納める。勝手向不如意の武家方の知行米 を引請け、米前金の名目で金子を貸し、前々の負債も太右衛門方 で引請けて弁済する。用立金に対しては都べて一割の利子を申受 ける。まづ十万石を目当として試みにやるといふので開業して見 た所が、頗る繁昌で、翌年は小網町三丁目に移つて、小網町武州 会所といふ名を用ひた。併し正米の直売買では甚だ不便であるか ら、仙台及び尾・紀・水三家の例に倣つて切手売をしたいと願出 で、その許可を得てから正米空米両方をやるやうになつた。  小網町及び尾州家紀州家三場所の売買仕方は大概同様で本場商 と日仕舞商との二通りがある。本場商といふのは大阪の帳合米商 と同様で、尾州では尾張の大俵米、紀州では伊勢の松坂領米、武 州では武州の中米を標準とし、売買は百石が一口、期月は一年に 四度である。日仕舞商といふのは大阪の石建商に同じく、これは 手仕舞期が短く、売買取組の日から三日目の市中正米直段と約定 直段とを見くらべて決算する。敷金は不用で、歩銀は本場商より 安い。併し一口を百石とすることは本場商同様であつた。                        ナラシ  この外紀州会所だけに小場商といふのがある。両平商ともいふ。 仕方は日仕舞商と同様であるが、損益の決算をする際、日仕舞商 では前述の如く取組日から三日目の江戸市中の正米直段と比べる が、小場商はこれと大阪市中の正米直段との平均をとり、それを 取組直段と比較する。これは伊勢の松坂の米会所の遣り方をとつ たのだと申します。

 


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