第九 株仲間
大阪から江戸へ積送る品物は大阪附近・中国筋・西国筋または
北国筋から大阪へ積上せた品物である。油の如きは出油屋の買集
品の外に大阪の絞油屋で絞るが、原料は欠張り買集物である。こ
れらの諸国からどれだけの品物や原料が大阪へ登り、大阪から出
たか。
正徳四年(一七一四)、享保九年正月から同十六年正月迄(一
七二三―三一)、元文元年(一七三六)、以上三回の数字が不充
分のものながら現存してゐます。
第一の数字によると大阪へ積登せた諸色は百十九種、代銀二十
八万六千貫目余、その中一万貫目以上のものは米・菜種・干鰯・
白木綿・紙・鉄の六種、大阪から諸国へ積下した諸色は九十一種、
代銀九万五千貫目、その中一万貫目以上のものは菜種油一種です。
但しこの統計はどうして出来たものか、また写本は悪い写本です
から、屹度誤字もあらうし、何分充分な信用が置けぬ。第二の数
字は享保八年十二月江戸町奉行大岡越前守諏訪美濃守から老中へ
伺済の上、大阪町奉行に届出を命じた分で、米・味噌・炭・薪・
酒・醤油・水油・魚油・塩・木綿・操綿十一品の江戸積高に限つ
てゐる。この帳面は享保十六年正月で経つてゐる。それから第三
の数字は元文元年に積登せた諸色の分量と代銀だけであつて、積
下し高はない。然し元来両方共あつたことは、同年冬の触書に例
の通諸色登り高下し高書は来る正月三日までに本人印形にて差出
せとあるので推量せられる。第一と同じ趣旨の統計で、而も例の
通とあるからこの調査は恐らくは正徳以来連続したものであらう。
積登せた諸色は百二十二種十万貫となるが、菜種・塩・雑穀類は
生憎数量だけで銀額がない。
よしや数量や銀高が明白でないとしても、諸国から積廻す品物
は、大阪表その筋の商人の手で手広に引受け、また江戸その外諸
国入用の品々は多分大阪から積送つてその用を弁じ、大阪が諸色
平均相場の元方であつたことは疑ふべからざる事実で、それがた
め大阪は「天下の台所」といはれたのである。従つて重要な商品
は勿論聊かの品にても大阪での取引高は決して小さくはない。そ
の筋の商人共は皆順々に仕入先に貸付金をなし、追々に引受ける
荷物で差引勘定をしては、また後日の荷物のために貸付をする。
諸国の荷主船頭はその金銀で国許入用の品を大阪で買調へて持下
る。それ故彼等も奮発し、仮令大阪から注文のないものまでも大
阪を目当として積廻し、こゝに諸色潤沢・物価平均・土地繁栄の
光景を呈した。大阪町奉行阿部遠江守が大阪商人を評して「下賤
の身分を以て諸国融通の大要を取扱候段、冥加にも相叶、他国の
者の及ばざる廉」云々といつたのは武家として町人に対する絶大
の賛辞であつた。
天明年間に大阪で二十四組江戸積問屋が出来た。その取扱品は
組の名から見て容易に分かるのもあり、中には分からぬのもある
が、要するに二十四組の取扱品が江戸積諸色であることは言ふま
でもない。天保度の仲間解放後、旧二十四組中重積九品即ち綿・
油・紙・木綿・薬種・砂糖・鉄・蝋・鰹節を取扱ふ商人が聯合し
て九店を作り、菱垣船を新造して江戸積をしたことは、既に述べ
た通りであるが、その銘柄を享保度と比較すると、綿・油・木綿
の三品は前後同一であるが、その他は異つてゐる。尤も酒が依然
として主な江戸積商品でありながら、九店の商品目中に見えない
のは、これは別に樽船で送るからである。
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