幕末の弊として武家が利を射るに汲々として蔵物を増加したこ
とは、品物の分量を減ぜずに、直段だけを引上げる一原因となつ
た。今迄納屋物といつて百姓町人から大阪へ廻した商品を、領主
地頭の手で買上げ、蔵物として廻す。たまに百姓町人から廻さう
とすると、蔵物の売捌に差支へるといつて遮り止める。今一歩悪
辣になると、他領の産物まで手を延ばして買集め、それを自領の
産物だといつて勝手の場所へ持つて往つて売つたり、品物を買入
れる節、無理に自分の藩で発行した銀札で買入れ、それを売払つ
てから、割引をして銀札を回収するのもあつた。実例を挙げると、
姫路藩では木綿龍山石その他いろ\/の物産を領内から買占めた
のみならず、天保十一年には製塩を買上げ、紀州勢州路ヘ売捌か
うとした。大阪ではその浜々に仕入金が貸付けてあるので大騒動
となり、これは遂に中止となつた。また同藩では従来領内の穢多
村から皮を製して摂津の穢多村へ売つて居たのを差止めたので、
穢多共から解除を歎願したら、それならば摂津の穢多村から皮一
枚につき銀五分づゝの冥加金を差出せと命じ、これが文政十一年
から積つて百貫目になつたとある。阿州の藍玉は元来蔵物ではな
く、一ケ年の積登高約四万俵(一俵二十二貫六百目入)、一俵銀
二百目位であつた所、文化年中蔵物に引直され、以来段々払出方
に懸引があつて、天保十二年には廻着高四万二千俵、一俵銀五百
二十六匁余となつた。廻着高は減らなかつたが、価格は二倍以上
に暴騰してゐる。かういふ仕方は姫路藩や阿州藩に限つた訳では
決してない。
文化文政になつて、大阪へ入る商品の減少と共に価格が騰貴し
たことは確かな事実で、その原因は前に述べた通り内外色々で、
必ずしも責を大阪商人のみに帰することは出来ない。然しその影
響は直ちに江戸へ響いて来る。どうしたら商品を潤沢にし、諸色
直段を引下げ得るか。時の老中首席水野越前守忠邦は百方考慮の
末、終に菱垣廻船積問屋株を始めとし、諸株仲間を全然停止する
に至つた。
|