Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.2.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その150

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第九 株仲間 (4)管理人註

武家射利に 汲々たり 株仲間の解 放

 幕末の弊として武家が利を射るに汲々として蔵物を増加したこ とは、品物の分量を減ぜずに、直段だけを引上げる一原因となつ た。今迄納屋物といつて百姓町人から大阪へ廻した商品を、領主 地頭の手で買上げ、蔵物として廻す。たまに百姓町人から廻さう とすると、蔵物の売捌に差支へるといつて遮り止める。今一歩悪 辣になると、他領の産物まで手を延ばして買集め、それを自領の 産物だといつて勝手の場所へ持つて往つて売つたり、品物を買入 れる節、無理に自分の藩で発行した銀札で買入れ、それを売払つ てから、割引をして銀札を回収するのもあつた。実例を挙げると、 姫路藩では木綿龍山石その他いろ\/の物産を領内から買占めた のみならず、天保十一年には製塩を買上げ、紀州勢州路ヘ売捌か うとした。大阪ではその浜々に仕入金が貸付けてあるので大騒動 となり、これは遂に中止となつた。また同藩では従来領内の穢多 村から皮を製して摂津の穢多村へ売つて居たのを差止めたので、 穢多共から解除を歎願したら、それならば摂津の穢多村から皮一 枚につき銀五分づゝの冥加金を差出せと命じ、これが文政十一年 から積つて百貫目になつたとある。阿州の藍玉は元来蔵物ではな く、一ケ年の積登高約四万俵(一俵二十二貫六百目入)、一俵銀 二百目位であつた所、文化年中蔵物に引直され、以来段々払出方 に懸引があつて、天保十二年には廻着高四万二千俵、一俵銀五百 二十六匁余となつた。廻着高は減らなかつたが、価格は二倍以上 に暴騰してゐる。かういふ仕方は姫路藩や阿州藩に限つた訳では 決してない。  文化文政になつて、大阪へ入る商品の減少と共に価格が騰貴し たことは確かな事実で、その原因は前に述べた通り内外色々で、 必ずしも責を大阪商人のみに帰することは出来ない。然しその影 響は直ちに江戸へ響いて来る。どうしたら商品を潤沢にし、諸色 直段を引下げ得るか。時の老中首席水野越前守忠邦は百方考慮の 末、終に菱垣廻船積問屋株を始めとし、諸株仲間を全然停止する に至つた。

 

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