Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.7.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その78

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  二 廻船 (5)
管理人註

廿四組江戸 積問屋株

 樽廻船問屋菱垣廻船問屋が相次いで株式となつてから、十年ば かり経つて天明四年(一七八四)に、大阪の江戸積問屋も亦株仲 間となつて廿四組江戸積問屋仲間と称した。これは江戸表で江戸 積問屋を株仲間にしようといふ触書が出たのが動機である。その 願書を見ると、大阪の江戸積問屋は江戸の十組問屋の注文に応じ て仕入れた荷物を、菱垣廻船問屋九軒に渡し、廻船問屋はそれを 菱垣船に積込んで江戸に送り、江戸の廻船問屋(三軒)と船頭と 立合の上で注文主に荷物を引渡す。大阪の問屋が江戸の注文主か ら貰ふ口銭は三分乃至一割五分であるが、その外に船歩銀と称し、 運賃銀十匁に対し八分をとる。これは出帆前に船頭に運賃の立替 払をする報償と称する。然るに運賃は江戸着の上で支払ふことに 一定せられた上は、船歩銀は当然徴収を廃止しなければならぬの に、問屋は依然としてこれを徴収し、その額一年二千七百両に上 る(運賃江戸着払は何年に決定したか不明、一年の運賃総額は二 千七百両を百倍して八で除したるもの、即ち一年三万三四千両と なる)。近年紀州熊野浦志州鳥羽湊附近で難破する廻船が多い。 江戸積問屋は従来新造船の費用の幾分を出資したが、度々の難船 で出資を肯んぜず、従つて嘗て二百艘もあつた菱垣廻船は減じて               クワヅミ 九十艘となり、船数が減ずれば過積が行はれ、愈々難破船が多く なる道理で、仮令難破の不幸は見ずとも延着は毎々のことで、そ れがために江戸表の諸色の相場に狂を生ずる。故に問屋の船歩銀 徴収を廃し、これを願人の手に収め、その中から冥加金千両を献 上し、残額千七百両を以て毎年新造船二艘(菱垣船一艘の造船費 はこれで見当がつく)を作ることとしたい。又現在の江戸積問屋 は五百軒ばかりあるが、官許を経ない内仲間の事であるから、右 以外にも江戸問屋の注文を受けるものが多い。これを株仲間とし たら客易に洩積を防ぐに足り、愈々便宜であらうといつてゐます。 過積とは定量以上に積むこと、洩積とは菱垣に積むべき荷物を樽 船に積込むことを指す。この願書は江戸から大阪へ廻され、色々 詮議を経た。廻船問屋の方には別段異論はなかつたが、江戸積問 屋は船歩銀を失つては大事だと強く反対して、とう\/却下とい ふことになつた。併し一方願人から冥加金を申立てた以上、ただ 反対する計りでなく、問屋の方も充分考慮せよといふ町奉行の説 諭で、それならば廿四組江戸積問屋といふ名称を立て、諸事先規 の通り営業することを得るならば、冥加として初年銀三百枚、翌 年から毎年百枚出しませうと申立てた冥加金については問屋と町 奉行所との間に押問答があって、遂に初年金三百両、翌年からは 金百両と値上げをし、天明四年に株仲間となつた訳である。

易か?





















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