もし不幸にして海上で難破すると、事甚だ面倒である。沿岸の
浦々に寛文七年(一六六七)に出された浦高札といふものがある。
その條文は左の通り、
(一)難破船があれば浦々ではその救助に尽力すること。
(二)浮荷物は二十分の一、沈荷物は十分の一を荷物を引揚げ
た人々に与へること。
(三)荷物を刎捨てた時は、着船の港において其所の代官・手
代・庄屋立会の上臨検し、残存荷物の目録を作る。若し
船頭が浦々の者と共謀し、荷物を刎捨てたと称してこれ
を竊取する場合には、船頭及び同類を死罪に行ふこと。
(四)久しく廻船を繋留するものあらば、その次第を尋問し、
順風を待つて速に出帆せしめること。
(五)船具水主不足の悪船に御城米を積んではならぬ。風波な
きに難破せば船主沖船頭を罪科に処すること。
(六)船舶荷物漂着せば取揚げよ。半歳を経て尚荷主不明なら
ば、拾得者の所有に帰すること。
(七)博奕諸勝負は堅く停止のこと。
(五)の外は廻船一般に行はるる法規であるが、特に大阪江戸
間を往復する船舶の難破の場合には、兎角船頭と名主庄屋と馴合
つて悪事を工むことが起り易いので、享保十四年(一七二九)難
破の場合は浦役人立合の上、船中の荷物をその儘とし、縄張を施
し、問屋荷主の現場に到着するまで昼夜番人を附すべしと令した。
難破の場所が今切以西だと大阪方面から、以東だと江戸方面から
極印元両行事(重立つた荷主で廻船に焼印を打つものを極印元と
いひ、惣行事大行事を両行事といふ、十組にも二十四組にもあつ
た)及びその船支配の廻船問屋が浦方へ出張して浦仕舞をする。
さうして清算の結果、不足高を総元値段に割付け、掛銀幾許とし
て集める。以上の如く難破船の勘定は真に面倒なものであつた。
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