Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.7.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その80

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  二 廻船 (7)
管理人註

仲間定法 菱垣廻船の 衰微 菱垣廻船積 十組仲間 頭取大阪屋 茂十郎の計 画

 廿四組問屋が出来た時に作つた仲間定法帳、即ち仲間規約を書 いた帳面を見ると、取締方・惣行事・大行事(以上二者を両行事 といふ)・通路人と称へる役員があつて、仲間総計三百四十七人 である。規約には注文を受けた買次荷物は成るべく安価に買入れ てこれを送付すること、荷物送状には必ず積込荷物の元直段を記 入すること、江戸荷主から買次諸荷物の海上請合又は船歩銀の減 額を請求して来ても、これに応じてはならぬこと、菱垣廻船以外 に積込まぬこと、荷物を船問屋仲仕に引渡した上はその荷物に対 し不時の異変を生じても問屋は責を負はぬこと等の規定がある。 それからまた仲間新加入者に対する条件を定め、実子が分家して 組合に加入する場合、奉公人が別家した後加入する場合、全く無 関係のものが新に仲間に加入する場合等によつて、両行事通路人 に対する出銀に等差を附し、全然新規に加入するものは仲間全体 の同意を得た後、金百両を出さねばならなかつた。凡そ仲間加入 の規定は如何なる仲間の定法帳にも必ず明記してあるものです。  両廻船問屋は株となり、積込荷物は一定された。けれども洩積 が止まない。酒荷物が少くなつたため、樽廻船問屋の方で船賃を 割引いて荷物を競争することが原因の一つであらうが、菱垣廻船 問屋の方にも船舶の修繕が行届かず、荷物が延着勝であるといふ 弱点があつたためである。その海難損金は天明四年(一七八四) から享和三年(一八〇三)まで、二十ケ年分で金三十五万八千八 十六両と銀六匁四分六厘六毛を数へた。それから文化五年の調に、 菱垣廻船は僅かに三十八艘に減じ、それも残らず悪船であると見 える。享保安永の頃の百六十艘と比べれば四分の一に減じてゐる。  この調子では廻船問屋は勿論江戸十組の滅亡座して待つべきで あるといつて振ひ起つたのが大阪屋茂十郎(杉本氏)といふ江戸 の町人で、これが菱垣廻船積十組仲間を擁立て、自らその頭取と なつた。元来茂十郎は甲州八代郡の百姓の倅で、江戸へ出て万町 の大阪屋茂兵衛(定飛脚問屋)の養子となり、養父没後家業を襲 いだ。仲々の遣り手と見え、得意先である十組諸問屋に出入して ゐる中、充分問屋の内幕に精通し、逐に菱垣船積十組仲間を組織 し、冥加金を納め、一方には三橋会所を建て、大川筋の永代橋・ 新大橋・大川橋三橋の改架修繕を請負ふ等、諸事思ふ通りに成功 した。これは文化五年(一八〇八)の冬から起つて六年七年と前 後三年に跨つた事件です。  茂十郭の考では、船舶の減少は言ふ迄もなく諸色の潤沢を妨げ る。加ふるに江戸の十組問屋は元手金不融通で大阪問屋の援助を 受けて居る。直接援助を受けない迄も兎角仕払が遅延する。さす れば大阪問屋がその金利を原価に懸けるのは当然で、これでは物 価下落の見込はない。そこで従来の船舶を修造すると共に、新造 船を打立て、合計百艘を以て大阪江戸間の物資を運搬することと する。この百艘が一年に四回往復するものとし、一往復毎に歩銀 として銀二百目を取ると、一ケ年八十貫目即ち金千三百三十三両 一分と銀五匁になる。これを三橋手当銀とする。但しこの金は決 して遊ばせて置かず、十組中裕福な諸問屋に諭して冥加金をなさ しめ、また十組から上納する冥加金の半額を幕府から貸下げ、以 上三口を合して問屋中資本不手廻りのものに一年八分の利子で貸 付け、その利子で三橋の改架修繕の費用を弁じ、尚余裕があつた ら積立て、四五十万両にもなつたら、大阪表の問屋共は勿論、諸 国荷主共に対し、原価引下を談判し、その代りに会所の手から送 荷物の代金滞りや不勘定の無いやうにするといふ随分大仕掛な計 画であつた。

 


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