古新両方で百艘の船は出来なかつたが、兎に角文化六年難破船
が多かつたにかゝはらず、八十艘を仕立てた。それから冥加金は
小組四十八口で八千百五十両を差出し、その後更に追加として二
千五十両を加へ、合計一万二百両といふ未曾有の冥加金額を出す
こととした。茂十郎は文化八年自ら筆を執つて十組問屋取結書と
題する一書を綴り、問屋成立の顛末を記してゐるが、それには大
分手前味噌が挙げてあつて一概に信じられぬ。冥加金について同
書の記事を見ると、今迄広大の国恩を受け、父母妻子を不自由な
く養ひ来たことを有難く存じ、聊づゝなりと献金したいと十組問
屋から申立てたやうに書いてあるが、木綿問屋の行事某が西川岸
の三橋会所へ呼ばれて、茂十郎の口から冥加金の金高を談判せら
れた様子を記し、「恰モ一向宗門ノ俗僧自己自院暮シノ為ヲ私シ、
弥陀及ビ親鸞報恩謝徳ヲ事ニシテ、収納ヲ虐ルガ如シ……俗ニ所
コハ モ テ
謂強権用是ナリ、後ダテハ樽与左衛門故、町人ノ分後難ヲ不恐者
モウジウロウ
更ニ有べカラズ、時ノ人杉本ヲ唱シテ毛充狼(茂十邸)トイフ」
とある。表裏甚だしい矛盾です。然しながら右問屋行事の連名で
冥加金上納を願出でた文面には、「私共木綿問屋四十四軒にて年々
金千両永世上納仕度奉願上候。右者全御冥加を奉存、上金仕度
奉願上候儀に而、聊にても商売筋之売物直段に相掛候不正之儀
にては決而無御座候間、以御慈悲顧之通御聞届置被下候はゝ
難有仕合奉存候」とある。いや\/冥加金を出しながら、文面
は即ち聞届を歎願してゐるのである。徳川時代、殊に末期になる
と、極端に形式主義に陥り、町奉行所に差出す書類などは一定の
形式に嵌らなければ通らぬやうになつた。従つて文面の通りに解
しては意味が相違することになる。この段は大いに注意を要しま
す。
茂十部は思ひの儘に十組問屋頭取となり、町方御用達となり、
三人扶持を賜ひ、苗字を許され、奉行所では地割役の次に座る位
置に進み、得意の絶頂に達した。十組はその後朝鮮人来聘につき
対州表まで菱垣船十二艘を無賃で差出し、また文化七八年米価下
落の節、買持米に尽力する等、彼是功労少からずとあつて、文化
十年愈々株札下附となつた。株数千九百九十五株、軒数にして千
二百七十一軒、それが六十五組に分れた。かう株数が定まつては
新規の加入者は明株を引請けるより外はない。株札を持たぬ者が
荷主と取引をすることは絶対に許されない。若し恣にする者があ
れば、問屋から訴へてその営業を停止せしめた。
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