金銀の法定
交換率
金銭の法定
交換率
銀銭相場の
下落
|
金銀貨の法定交換率は金一両銀六十目と信ぜられてゐる。然し
慶長十四年において幕府は金一両に銀五十目替たるべしと令して
ゐる。それが何時まで続いたか。大日本貨幣史参考に、元禄八年
令によつて六十目になつたとありますが、自分はまだその本文を
見出しません。それから元禄十三年には、両替屋共当年より来年
十二月まで金一両につき銀五十八匁より高直にすべからずと令し
てゐる。法定交換率は金一両銀六十目であるが、当時銀払底であ
つたため、一時かやうな交換率を容認した訳である。また幕末外
国貿易が行はれてから、金銀貨の釣合がとれぬといつて、万延元
年(一八六〇)急に金貨の直段を高めたこともある。徳川時代を
通じて金銀交換率を一様と見るのは間違といはなければならぬ。
さうして実際の取引相場にあつては一高一低常ならず、その原因
は量と質とによるのは勿論で、数量の方はどうも史料が得悪いが、
実質による相場の高下は金銀改鋳の際に起つた幾多の波瀾によつ
て証拠だてられる。
銭は一両につき四貫文たるべしと寛永新銭発行の際に規定され
てゐるが、天保十三年(一八四二)には六貫五百文とし、次いで
当分の内天然相場によるべしとある。さすれば金銭の法定交換率
も時に随つて変化のあつたものである。実際には相場に常に高下
があつたことは金銀のそれと同様だ。
実際相場からいへば銀も銭も古い時代は高く、幕末には極めて
安くなつた。銀は文化文政から弘化嘉永に至る間は概ね六十目以
上七十目以下であつたが、安政四年から七十目以上となり、文久
三年には八十四匁、慶応年間には百目以上に達した。銭は天保の
末から弘化の頃までは六貫五百文位、それから慶応二年頃までは
大抵六七貫文であつたが、慶応三年には非常に下落して十二月に
は九貫文以上、明治元年には十貫文以上となつた。
|
|