Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.9.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その87

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第五 金 融
  一 両替屋 (3)
管理人註

金銀の法定 交換率 金銭の法定 交換率 銀銭相場の 下落

 金銀貨の法定交換率は金一両銀六十目と信ぜられてゐる。然し 慶長十四年において幕府は金一両に銀五十目替たるべしと令して ゐる。それが何時まで続いたか。大日本貨幣史参考に、元禄八年 令によつて六十目になつたとありますが、自分はまだその本文を 見出しません。それから元禄十三年には、両替屋共当年より来年 十二月まで金一両につき銀五十八匁より高直にすべからずと令し てゐる。法定交換率は金一両銀六十目であるが、当時銀払底であ つたため、一時かやうな交換率を容認した訳である。また幕末外 国貿易が行はれてから、金銀貨の釣合がとれぬといつて、万延元 年(一八六〇)急に金貨の直段を高めたこともある。徳川時代を 通じて金銀交換率を一様と見るのは間違といはなければならぬ。 さうして実際の取引相場にあつては一高一低常ならず、その原因 は量と質とによるのは勿論で、数量の方はどうも史料が得悪いが、 実質による相場の高下は金銀改鋳の際に起つた幾多の波瀾によつ て証拠だてられる。  銭は一両につき四貫文たるべしと寛永新銭発行の際に規定され てゐるが、天保十三年(一八四二)には六貫五百文とし、次いで 当分の内天然相場によるべしとある。さすれば金銭の法定交換率 も時に随つて変化のあつたものである。実際には相場に常に高下 があつたことは金銀のそれと同様だ。  実際相場からいへば銀も銭も古い時代は高く、幕末には極めて 安くなつた。銀は文化文政から弘化嘉永に至る間は概ね六十目以 上七十目以下であつたが、安政四年から七十目以上となり、文久 三年には八十四匁、慶応年間には百目以上に達した。銭は天保の 末から弘化の頃までは六貫五百文位、それから慶応二年頃までは 大抵六七貫文であつたが、慶応三年には非常に下落して十二月に は九貫文以上、明治元年には十貫文以上となつた。

 


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