上方の銀目
関東の金目
江戸の両替
屋仲間の員
数
その種別
相場の建方
江戸の銀銭
相場の立合
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ギンメ
物価をいふに上方は銀目を以てし、関東筋は金目を以てした。
相撲取を呼ぶに、上方では何十目取といひ、江戸で十両取といふ
類である。上方は貨物の名目を表に立て、銀の方から高下をなし、
例へば米一石銀何十何匁何分といひ、関東筋は金を表にし、金一
両につき米何石何斗といふやうに升目の方から高下を為した。か
くの如く上方と江戸では金目銀目の相違があつたから、両地間の
取引は江戸では銀の安い時に注文するを利ありとし、上方では金
の安い時に売捌くを利益とした。その状態は恰も明治初年の日本
ドル
商人が弗相場を利用して商品取引上の利益損失と為替換算上の利
益損失とを重ねた如くである。
金銀銭の相場は両替屋でたてる。一口に両替屋といつても、主
として金銀を取扱ふものと銭を取扱ふものとの二種がある。前者
を本両替といひ、後者を脇両替一に銭両替といふ。江戸で享保三
年(一七一八)商売人の組合を定めた時、両替屋を六百人と限つ
たが、その後安永九年に六百三十五人、天明四年に六百四十三株
と定め、天秤を六百四十三挺に限り、天秤一挺につき役金十四両
を上納せしめた。天秤は両替屋に欠くべからざる用具であるから、
両替屋の人数と天秤の数とを同一ならしめ、天秤を以て両替屋の
営業特権を代表せしめた。故に両替屋の株を譲渡す時には必ず天
秤を譲渡すものとした。
六百四十三株は分れて本両替屋・三組両替屋・番組両替屋の三
つとなる。本両替屋は本両替町及び駿河町に軒をならべてゐるた
め両町両替屋ともいふ。人員は時代によつて著しい相違があるが
享保三年十六人、安永九年天明四年は各々六人 三谷三九郎・三
井次郎右衛門・三谷勘四部・三谷善次郎・三谷庄左衛門・三谷喜
三郎 であつた。本両替屋は金銀の両替は勿論為替及び貸附を行
ひ、仲間全体としては新古金銀の引替、上納金銀の鑑定及び包立、
金銀相場及び銭相場の書立等所謂「御用」を奉仕した。
【本両替仲間鑑札 略】
セリ
三組とは神田組・三田組・世利組をいふ。三組は銭両替ではあ
るが金銀をも取扱ふ。これに反して純粋の銭両替といふべきは番
組両替屋にて一番組より二十七番組までに分れたが、後に一番組
は消滅し、二番組より二十七番組までとなつた。天明度の実際人
員三組五十五人、番組五百三十三人とある。三組も番組も両替業
にのみ徒事せず酒屋・質屋・油屋・紙屋等を兼業してゐた。
前にもいふ通り、江戸は金遣であり、上方は銀遣であるから、
江戸では金を本体とし、金を以て銀を買ふ時の相場を建て、上方
は銀を本体とし、銀を以て金を買ふ時の相場を建てる。故に江戸
で銀相場が六十二匁から六十三匁になれば銀相場下直といひ、上
方で金相場が六十二匁から六十三匁になれば金相場高直といふ。
次ぎに銭相場は江戸では金一両を標準として銭何貫何百何十文と
建て、大阪では銭一貫文を標準として銀何匁何分と建てる。
江戸の銀相場は三組及び番組両替屋が両替町及び駿河町の往来
へ集合して建てた。後には相場立合仲間といふものが出来て、会
所を作り、京大阪との相場並びに為替の連絡を取るやうになつた。
銭相場の方は古くは日本橋青物町、その次は四日市の広場で立会
ひ、幕末には両替町に移つた。銭相場は銭両替屋行事から毎夜本
両替屋行事まで通知し、本両替屋行事は毎日駿河町の名主及び樽
役所へ銀銭相場を書上げ、駿河町名主から更に御勘定所その他へ
定期に書上げた。
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