金銭延売買
会所
大阪両替屋
仲間の繁栄
その衰頽
|
シルシ
右に述べた如く会所で行ふ売買は正金取引で、印金(帳合金と
もいふ)といつて、延売買をすることは厳禁でした。寛文年間に
既にその禁令がある位です。然るに宝暦十三年(一七六三)にな
つて、冥加として一年金千五百両を納めるから、延売買を許して
貰ひたいと出願した者がある。これが許可になつて金相場会所の
構外と南本町一丁目とで行ふことになつた。尤もこれは金相場と
は全然別物で、売買の目的は相場の変動による差金の授受で、相
場の高下に一定の制限があつた。二匁又は三匁、それ以上になる
ウハナガレ
と上流・下流といつて、その限度までの差金を授受するに止め、
ウマレ
再び正金相場を標準として新に延売買を開始した。これを生相場
といふ。この方は営業が思ふ様に盛大でなかつたと見え、冥加金
を減額してゐる。最後の請負人などは、どうか冥加金を一年三十
五両にして貰ひたいと願つてゐる程で、天保十四年に廃止となつ
てゐます。慶応三年十二月にまた出来ましたが間もなく御維新と
なりました。
両替屋の営業の繁昌は江戸と大阪とでは大分相違がある。大阪
の商人は自分の所に現金を置かない。金があればすぐ両替屋に預
け、通帳によつて出し入れした。また商売上には手形の取組が盛
んであつた。大阪商人は諸国から金を受取ると、必ずその金を両
替屋へ持つて行つて銀を買ふ。その金銀の売買で両替屋は大抵金
一両に銀一匁の利益がある。大きな利益といはねばならぬ。江戸
の方は余分な金があつても両替屋へ預けない。振手形も大して行
はれなかつた。また銀で値段を唱へないから金銀の売買がない。
これ等の理由でどうも江戸の方は大阪ほど信用制度が発達しなか
つた様です。
かやうに盛大であつた大阪の両替屋は明治になつてばた\/と
倒れた。それは幕末になつてから幕府が献金とか、用金とか、商
社出金とか、色々の名目で大阪から正貨を引上げ、また諸藩も立
入町人の手を通して軍用金をどし\/借出した。それがため流通
資金が欠乏して来た。それは幕末の金利が非常に高くなつて居る
ので証明される。さうしてこの趨勢は維新後も引続いた。新政府
は京阪の町人から金を借出し、殊に明治元年五月に太政官札を発
行して盛んに正金の引上を試みた。それから一方には大名への貸
倒れが沢山に出来る。五月に銀目が廃止となつて、金銀の売買に
利を得ることが出来なくなつた。是等の諸現象が色々に働いて両
替屋の閉店倒産が相次いだものと思はれる。
|
★
|