Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.9.23

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その94

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第五 金 融
  一 両替屋 (10)
管理人註

金銭延売買 会所 大阪両替屋 仲間の繁栄 その衰頽

                      シルシ  右に述べた如く会所で行ふ売買は正金取引で、印金(帳合金と もいふ)といつて、延売買をすることは厳禁でした。寛文年間に 既にその禁令がある位です。然るに宝暦十三年(一七六三)にな つて、冥加として一年金千五百両を納めるから、延売買を許して 貰ひたいと出願した者がある。これが許可になつて金相場会所の 構外と南本町一丁目とで行ふことになつた。尤もこれは金相場と は全然別物で、売買の目的は相場の変動による差金の授受で、相 場の高下に一定の制限があつた。二匁又は三匁、それ以上になる ウハナガレ と上流・下流といつて、その限度までの差金を授受するに止め、                           ウマレ 再び正金相場を標準として新に延売買を開始した。これを生相場 といふ。この方は営業が思ふ様に盛大でなかつたと見え、冥加金 を減額してゐる。最後の請負人などは、どうか冥加金を一年三十 五両にして貰ひたいと願つてゐる程で、天保十四年に廃止となつ てゐます。慶応三年十二月にまた出来ましたが間もなく御維新と なりました。  両替屋の営業の繁昌は江戸と大阪とでは大分相違がある。大阪 の商人は自分の所に現金を置かない。金があればすぐ両替屋に預 け、通帳によつて出し入れした。また商売上には手形の取組が盛 んであつた。大阪商人は諸国から金を受取ると、必ずその金を両 替屋へ持つて行つて銀を買ふ。その金銀の売買で両替屋は大抵金 一両に銀一匁の利益がある。大きな利益といはねばならぬ。江戸 の方は余分な金があつても両替屋へ預けない。振手形も大して行 はれなかつた。また銀で値段を唱へないから金銀の売買がない。 これ等の理由でどうも江戸の方は大阪ほど信用制度が発達しなか つた様です。  かやうに盛大であつた大阪の両替屋は明治になつてばた\/と 倒れた。それは幕末になつてから幕府が献金とか、用金とか、商 社出金とか、色々の名目で大阪から正貨を引上げ、また諸藩も立 入町人の手を通して軍用金をどし\/借出した。それがため流通 資金が欠乏して来た。それは幕末の金利が非常に高くなつて居る ので証明される。さうしてこの趨勢は維新後も引続いた。新政府 は京阪の町人から金を借出し、殊に明治元年五月に太政官札を発 行して盛んに正金の引上を試みた。それから一方には大名への貸 倒れが沢山に出来る。五月に銀目が廃止となつて、金銀の売買に 利を得ることが出来なくなつた。是等の諸現象が色々に働いて両 替屋の閉店倒産が相次いだものと思はれる。

   ★
  


「江戸と大阪」目次2/その93/その95

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ