大名が蔵物を売つてそれで一藩の経済を支へて行けば申分はな
いが、多数の大名は皆借金を背負つて居た。大名の領地には表高
と内高との二つがある。表高は幕府から何十何万石として与へら
れた所領で、内高はその所領の実際の高である。表面より多い所
もあれば、さうでない所もある。仮に内高が多いにせよ、その内
高は年と共に殖えるものでない。新田の開発等によつて時に殖え
ることはあつても、生活の向上と相伴はない。収入が大して増加
しないのに生活の方はどし\/向上する。これが諸侯の貧乏とな
つた主因であらう。世の中が太平になれば、干飯を噛り、濁水を
飲んで奮闘をした戦国時代の苦痛の反動として、俄に奢侈に流れ、
贅沢に陥る。元和偃武から六十年後の元禄になつてその風が現は
れて来た。参覲制度は大名にとつては非常に費用のかゝる難儀な
制度であつたが、一方には幕府が諸侯を抑へつけて行く一大手段
であるので、到底廃止することは出来ない。大名は御手伝といつ
て幕府から臨時に土木工事を命ぜられる。冠婚喪祭から日常の生
活に至るまで格式といふものがあつて、それを変ずることは出来
ない。借金してもこの格式を守つて行かなければならぬ。火災・
水害・旱損等の災難も数々ある。それこれ色々な原因で大名の生
活は不足勝であつた。
財政の不足を補ふために種々の手段が講ぜられた。倹約は結構
であるが、永続せねば效が見えず、永続は甚だ困難である。紙幣
の発行は便利なやうだが、正金銀との引替が容易に行はれぬ限り
は、表記の価格を維持することが出来ず、不如意の大名に豊富な
引換準備は到底望まれぬ。帰する所は借金より外に手段は無い。
そこで先づ臣下から借りる。家中の侍共に渡すべき俸禄の中、三
分の一なり、二分の一なりを借上げる。つぎに領内の百姓町人か
ら借上げる。これを用金といふ。尚不足の場合は大阪の町人から
借りる。いづれにしろ一度借りたら、借金の皆済になる機会は殆
ど無い。もと\/収入が一定してゐるのだから、利足だけ払ふの
すら困難で、仲々元金の償却へは手が届かない。利足がたまるの
みならず、そこへまた新規に借金をする必要が生じるといふ訳で、
未来永劫浮ぶ瀬がない。かくして天保頃には大名の売物が出たと
いふ話さへある。
山崎闇斎の「盍徹問答」に、大名の財政取直の事が論じて
ある。同書は元禄頃の著述であるから、もうその頃に大名の
財政は苦しかつたものと思はれる。京都の医師新宮凉庭が文
政十一年の春、某侯の家老の問に応じて述べた財政立直策が、
彼の著書「破れ家のつづくり話」に出てゐる。
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