Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.19

玄関へ
論文集目次


「大塩後素」 その5

『古今名誉実録 合本下巻』
春陽堂 1895  より転載

◇禁転載◇


管理人註

後素事を挙げんの準備漸く成らんとして、先づ檄を四方に伝へ、天下 公衆をして我が志の在る所を明かにし、究民に告げて其堵に安んぜし めんとて、即ち一篇の檄文を草して、是を頒布したりき、其文曰く、  四海困究すれば天禄永く終らん、小人に国家を治めしむれば災害並  び至と、昔しの聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御戒め              くわんか  被置候故、 東照神霊も、鰥寡孤独に於てはあはれみを加ふべく候、                 ここに  是れ仁政之基と被仰置候、然るに于茲二百四五十年太平の間に、追々  上たる人驕奢とておごりを極め、大切之政事に携はり候諸役人共、  賄賂を公に授受とて贈り貰ひ致し、奥向女中の縁を以て、道徳仁  義もなき拙き身分にて、立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工         めぐら  夫のみに智術を運らし、其の領分知行所の民百姓共へ過分之用金申  し付け、是れまで年貢諸役の甚しきに苦しむ上、右之通り無体の儀  を申渡し、追々入用かさみ候故、四海困究と相成候付、人々上を怨  まざるものなき様に成り行き候へ共、江戸表より諸国一同右の風儀  に落入り、  天子は足利家以来別して御隠居御同様、賞罸の柄を御失ひ被遊候に  付、下民の怨何方へ告愬とて告訴ふる方なき様に乱れ候に付、人々                        こぼ  の怨気天に通じ、年々地震火災、山も崩れ、水も溢るより外、色々          つゐ  様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成り候ふ、是れ皆天より深く御  誡めの有難き御告に候へとも、一向上たる人々心も附かず、猶ほ小  人奸者の輩、大切の政を執り行ひ、唯下を悩し金米を取立る手段ば  かりに相掛り、実以て小前百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の蔭  より常々悲察候へども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もな  ければ、徒らに蟄居致し候ふ処ろ、此節米価高直に相成り、大坂の  奉行並諸役人共、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江  戸へ廻米を致し、  天子御在所の京都へは廻し米の世話も致さゞるのみならず、五升一  斗位の米を買ひに下り候ふ者共は召捕などいたし、実に、昔し葛伯  といふ太名、其の農民の弁当を持ち運び候ふ小児をころし候ふも同  様、言語道断、何れの土地にても、人民は 徳川家御支配の者に相違なき処ろ、如此隔てを附け候ふは、全く奉  行等の不仁にて、其上勝手我儘の触書等を度々差出し、大坂市中遊  民ばかりを大切に心得候ふは、前々も申す通り、道徳仁義を存せず  拙き身分にて、甚だ以て厚かましき不届の至り、且三都之内大坂の  金持共、年来諸大名へ貸附候ふ利得の金銀並に扶持米を莫大に掠め  取り、未曾有の有福に暮し、町人の身を以、大名の家老用人格等に  被採用、又は自己の田畑新田等を夥しく所持、何に不足なく暮し、  此節の天災天罰を見ながら思も致さず、餓死の貧人乞食をも敢て救  はず、其身は膏梁の味とて結の物を喰ひ、妾宅等へ入込、或は揚  屋茶屋等へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様に致  し、此難渋の時節に絹服を纏ひ候ふ河原者を妓女と共に迎へ、平生  同様に遊楽に耽り候ふは、何等の事ぞ、紂王長夜の酒盛も同じ事、  其所の奉行諸役人、手に握り居り候政を以て、右の者共取締り、下  民を救ひ候ふ儀も出来がたく、日に堂島相場ばかりをいぢり事にい  たし、実に禄盗人にて、決して天道聖人の御心に叶ひ難く、御赦し  なき事に候ふ、蟄居の我等もはや堪忍成りがたく、湯武の勢孔孟の  徳はなけれども、天下の為と存じ、血族の禍ひを犯し、此度有志の  者と申し合せ、下民を悩まし苦しめ候ふ諸役人を先づ誅伐致し、引  続き驕に長じ居り候ふ大阪市中金持の町人共を誅戮に及び可申候ふ  間、右の者共穴蔵へ貯へ置候ふ金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠し置候ふ  俵米、夫々分配致し遣はし候ふ間、摂河泉播の内、田畑所持致さゞ  る者、縦令所持致し候共、父母妻子の内の養ひ方出来がたき程の難  渋者へは、右白米等取り別け遣はし候間、いつにても大阪市中に騒  動起り候ふと聞き伝へ候はゞ、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向ひ                            きよきゃうろくだい  馳可参るべく候ふ右の面々へは金米を分け遣はし可申候、鉅橋鹿台  の金粟を下民へ被与候ふ遺意にて、当時の飢饉難儀を相救ひ遣はし、             これ  若し又た其の内器量才力之ある者は夫々に取り立て、無道の者共を  誅伐致し候ふ軍役にも使ひ申すべく候ふ、必ず一揆蜂起の企てとは  違ひ、追々年貢諸役に至るまで軽く致し、都べて中興  神武帝御政道之通り、寛仁大度の取扱ひに致し遣はし、年来驕奢淫  逸の風俗を一洗相改め、質素に立戻り、四海万民いつまでも天恩を  難有存じ、父母妻子を養はれ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽を眼  前に見せ遣はし、  尭舜  天照皇太神の時代に復しがたくとも、中興の気象に恢復とて立戻し                      あまた  可申候、此書附村々一々知らせ度候らへとも数多の事に付、最寄の  人家最も多き大村の神殿へ張附け置候ふ間、大阪より廻し有之候ふ  番人共に知らせざる様に心掛け、早々村々へ相触れ申すべく、万一  番人共眼附け、大阪四ケ所の奸人共へ注進致し候ふ様子に候らはゞ、  遠慮なく面々申し合せ、番人を残らず打殺し申すべく候ふ、若し右  騒動相起り候と承はりながら、疑惑致し、馳参り申さず、又は遅参  に及び候らはゞ、金持の金米は、皆火中の灰と相成り、天下の宝を  失ひ申すべく候ふ間、跡にて我等を恨み、宝を捨る無道者と蔭言を  致さず様致すべく候、其為め一同に触れ知らせ候ふ、尤も是まで地  頭村方にある年貢等に拘はり候ふ諸帳簿記録類は都べて引破り焼棄  て申すべく候ふ、是れ往々深慮ある事に候ふ、人民を困究致させ申  さゞる積りに候、去りながら此度の一挙、当朝の平将門、明智光秀、  漢土の劉裕、朱全忠の謀反に類し候ふと申す者、是非これある道理  に候らへども、我等一同心中に天下国家を簒盗致し候慾念より起し  候ふ事には更に是なく、日月星辰の神鑑にある事にて、詰る処は、                とぶ  湯、武、漢高祖、明太祖、民を吊らひ、君を誅し、天誅を執行候ふ  誠心のみに候ふ、若し疑はしく覚え候はゞ、我等の所業終る処を爾  等眼を開いて看よ、  但し此書附、小前の者へは、道場坊主、或は医者等より篤と読み   聞かせ申すべく候、若し庄屋年寄、眼前の禍を畏れ、一己に隠し   置候はゞ、追つて急度其罪を行ふべく候、  奉天命致天誅候、   天保八丁酉年 月 日          某            摂河泉播村々             庄屋年寄百姓並に                   小前百姓共へ 此書面は長方形の紫絹の袋に入れ、その裏へは左の如き紙を貼付せりき、

檄文」 東照神 も不致 右伐 極楽成仏 記録帳面


「大塩後素」目次/その4/その6

論文集目次
玄関へ