Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.20

玄関へ
論文集目次


「大塩後素」 その6

『古今名誉実録 合本下巻』
春陽堂 1895  より転載

◇禁転載◇


管理人註

こは同志の人々にて、尤も重立ちたる者、即ち組与力小泉淵次郎、瀬 田済之助、同心庄司義左衛門、渡辺良左衛門、吉見九郎右衛門、近藤 梶之助、大井正一郎、竹上万太郎、河合郷左衛門、平山助次郎、其他 平八郎の伯父にして当時摂津吹田村の神職宮脇志摩、彦根浪人梅田源 左衛門、安田図書、松本林太夫、摂州般若寺村の名主橋本忠兵衛、守 口宿の質屋庄兵衛、同宿の名主茨田軍次、同斎次、上田幸太郎、西村 利三郎、高橋九左衛門、梶岡源左衛門、同伝七、志村周次、阿部長介、 堀井磯三郎、曾我岩助、市田次郎兵衛、額田七右衛門、郷井儀三郎、 横田文助等を招集して、此文を草し、扨て是を印刷に附するに当りて                              さき は、後素も頗る苦心せしが、万一漏洩しては一大事なればとて、曩に 施行の証券を刻せしめたりし職工四五名を呼び来て、我が日の本の神 の教へを人民に示さん為に一書を刊行するなればと欺きて、横断して 数十葉の木板をば自邸の一室に於て彫刻させたれば、職工等も更に其 文意を解する能はず、刻成りて後は、職工等を放還して、大塩父子等 の手にて秘密に印刷し、密かに人をして摂津、和泉、河内、播磨の地 方数里の各村落へ散布せしめたりしかば、人皆その誰の手に出しやを 知らず、いづれも其事を意外にして文の慷慨激烈なるに、一驚を喫せ ざるものもなかりきとぞ、 後素は前の町奉行高井山城守の信任を得て、己れも亦深く山城守の知 遇を感じて、其命の下に立ちけるが、山城守は後素の才能の人に優れ て徳望いよ\/高きを見て、江戸表へ勤仕の志あらば、推薦すべしと 勧めしかど、後素は之を辞して肯ぜず、山城守と進退を共にせんこと を誓へりしが、文政十二年の七月山城守は老躬事に堪へずとて、職を                      つかえ 辞せんと決心し、上書しけるより、後素も共に仕を致して、邸内に隠       ときに 居しけるが、于時年三十七にてありき、 後素が愈々志を決して事を挙げんとなしたるは、天保八年の正月より       あひた 二月に至るの交なりけるが、この二月始め、西町奉行新に交代して、 堀伊賀守下坂し、同月十九日を以て相役東町奉行跡部山城守と天満組 屋敷を巡視すべしと決定し、同日与力朝岡助之丞の家を休憩所と定め たり、この報告に接すると共に、後素等は機失ふべからず、誠に千載 の一遇なり、この日こそ、両町奉行を誅戮し、勢に乗じて事を挙げ、          えぐ                 おびやか 一は以て奸吏の腸を抉り、一は市中の豪商を却掠して、金銭米穀を貧 民に頒施し、我党は摂州甲山に陣して、後図をなさんと謀を定めて、 直ちに同志の輩を糾合し、各々其向ふ所を部署す、 先づ第一陣は大塩格之助、大井正一郎、庄司義左衛門、(木製大筒三 挺)、白井孝右衛門、茨田軍次、橋本忠兵衛、梶岡源左衛門、本山伝 七、今井儀三郎、横田文助等にして、第二陣は、大塩平八郎、杉山三 平、梶岡伝七、(鉄砲)、深尾次兵衛、高橋九左衛門、松本林太夫、志 村周次、上田孝太郎、堀井磯三郎、安田図書、阿部長介、西村林兵衛 等に、大筒二挺にして、第三陣は、瀬田済之助、渡辺良左衛門、近藤 梶五郎、(鉄砲)、西村七助、同喜八、等にて、第四陣は、梅田源左衛 門、大筒一挺と軍備已に定まつて、即ち格之助の乳母にてつねと呼べ                              ひそ る者、当時油掛町の染物屋三好屋五郎兵衛の妻となり居るを以て陰か に注文して、天照皇太神神宮、湯武両聖、東照大権現と認めたる大旗 を前後に推樹てんとて、その染方を依頼し、万事悉く準備を調へて十 九日の来るを遅しと待ち掛たり、

五郎 庄兵衛は 白井孝右衛門か 茨田軍次は 門真三番村 堀井三郎


「大塩後素」目次/その5/その7

論文集目次
玄関へ