Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.21

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「大塩後素」 その7

『古今名誉実録 合本下巻』
春陽堂 1895  より転載

◇禁転載◇


管理人註

爰に後素の門人にて宇都木敬治と呼べるは江州彦根の城主井伊掃部頭 の家臣にて当時老職を勤むる宇都木下総の二男なりけるが、兼ねて西                      あたか 海九州を巡歴し、風土山川人情等を視察して、恰もこの二月十八日と いふに、下僕友蔵なるものを従へて大坂に帰り、後素の門を叩いて久               わ         たま\/ 濶の情を叙し、師弟の旧情を話しけるが、会々同志の人々来り合せて    てふ 後素に喋じ、敬治をも一味に誘導せんとする者あり、後素も固より敬 治が有為の材なるを知るものから、是を説いて我党の士となすに於て                     このたび は万卒を得たるにも勝りなんと思惟し、即ち此回の挙を語りて其合心 を促がしけるに、敬治は是を聞て大に歎息し、その事の不良なる目的                         にはあらねど、大義名分を誤認して、暴を以て暴を易ゆるの拙計を止 めんと欲し、即ち一書を裁して是を友蔵に嘱し、我か故郷なる双親に 捧げしめ、己れは一死を期して万人を救はんものと、後素に向ひて其 事の非理なるを論じ、大義の存する所を明らかにして、他の良計を取 らんことを諫めしかど、勢は已に茲に至つて、亦如何ともすべからず、                          あまつ 後素も其理を悟らぬにはあらねど、遂に其言を容れず、剰さへ事の或 は敬治の口より洩れんことを恐れ、大井正一郎をして敬治を一室に刺 さしめたり、 敬治が遺書として下僕の友蔵が故郷へ持帰りし文面は左の如くなりき と、         せんわ  一筆認残申候、暄和之節に相成候得共、御両親様、尊兄様、姉上様、  御一統様、御揃御機嫌能可被成御座奉恐悦候、然ば私儀、先達て小  倉表より申上候通り、雨天続候へ共日積り大抵にて、十七日の夕刻、  大坂安治川へ着船仕り、四ケ年以前出立之砌、師弟之契約仕り候大  坂天満与力大塩平八郎方へ着仕り、久々にて面会仕候処、如何成天  魔が身入候哉、平八郎存外之企有之、大坂町奉行討取、其上市中放            とぶらふ  火致し、君を誅し民を吊抔と、全く謀叛の企にて、私荷担可致旨、  強て申聞候間、種々諌言いたし候へ共、申合せし事返さぬ気象故、  容易にては承知仕間敷と存じ奉り候、併し此儘見捨て、私帰り候て  は、武士の道不相立、其上如斯之大望打明し候平八郎に候へば、私  承知の上は、生しては帰し申間敷候、乍去荷担致候へば、万一御家  之御名穢し、忠孝の道に背き、師を見捨候へば、義相立不申候、無  拠一命を指出し、今夜平八郎を始め徒党の者へ、篤と利解申聞、忠  孝仁義相立候様仕度奉存候間、何共重々恐入候儀奉存候得共、御前  へ万端宜しく御取成奉願候、是まで重々厚き慈愛を蒙り、私帰国も  無程儀と御待被下候儀と奉存候、猶又故郷難忘事、未練の者と思召  も恥入候仕合に候へ共、斯る時節参り候ふは、全く武運の尽き候儀         つぶさ  と奉存候、様子具に相認め申上度と存じ候へ共、何れ即日御地へも  相分り可申候と存じ認め申さず候、大坂騒動相起り候と御承知被下  候へば、敬次相果候と思召可被下候、最早時刻に相成、心急ぎ候儘  荒増御名残迄に申上候、余は心中御察し被下候様奉願上候、且又友  蔵儀永々旅中厚く世話致し呉れ、其上昨年私不快之節抔別て厚く介  抱致し呉れ候、一々礼も申さず相別れ申候、よろしく御伝へ可被下  候以上      二月十八日       敬治拝        御一統様                 あたら 宇都木敬治当年二十九歳と聞えし可惜盛りの若者を無常の嵐に散らし ける事こそ哀なれ。

木
































石崎東国
『大塩平八郎伝』
その113

『塩逆述』
巻之九
その3
   


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