Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.22

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「大塩後素」 その8

『古今名誉実録 合本下巻』
春陽堂 1895  より転載

◇禁転載◇


管理人註

謀は密なるを尊べばや、斯く心ならずも有為の壮士を殺してまで、事 の洩れざらんことを欲しけるに、兼ねて平八郎に一味して事を謀らん とせし平山助次郎なるもの、二月十七日の夜、俄かに変心して、単身               こたび 跡部山城守の許へ至り、後素が這回の密謀を悉く訴へ出ければ、山城 守は大に驚いて、翌十八日堀伊賀守と計り、先づ明十九日の巡視を延 期して急に後素等徒党の者を逮捕せんと議を決し、即ち東組与力萩野                      あまた 勘右衛門、西組与力吉田勝右衛門に命じて同心数多引卒し、平八郎父 子を召捕り来るべしと伝へしに、両人は平八郎父子の強勇なるを知り、                     ことば 且つ党与の人数集合なし居らんことを恐れて言を巧みにして是任を逃 れんと欲し、山城守に謁して、同組与力大西与五郎は平八郎の叔父に して同人の最も尊敬し居る者なれば、彼をして密かに平八郎に面会し て事の成らざるを説き、自刃を勧めしめば、事穏便に相済むべし、徒                      ま め に少数の人を以て血雨を流すにも及ばじ、と忠実だちて言ひ立てけれ ば、山城守も是に同じて大西与五郎を召し此事を命じけるに、与五郎 かしこま は畏りぬとて立出しかど、此事の甚だ危うくして平八郎に向ふべき勇         みち 気なかりければ、途より倅善之丞を伴ひて、何方ともなく逃行けるこ                      こら そ笑止なれ、山城守は伊賀守と共に猶も協議を凝しつゝ与五郎の吉左 右を待ち居たる処に、翌十九日の払暁、同心吉見九郎右衛門、河合郷 右衛門の両人より倅吉見英太郎、河合八十次郎をして告訴状一通、並 に平八郎党与の連名書及び彼の檄文を合せて伊賀守の許へ急訴に及び たれば、山城守も共に驚いてその連名書を点せしに、前夜来の宿直 の与力小泉淵次郎、瀬田済之助両人も徒党の一人なれば、先づ是を搦 め捕りて詰問せんと両士を呼びけるに、両士は神ならぬ身の夫と知ら ず山城守の部屋へ来りしに、折しも御用の次第あれば佩刀は許し難し とて、その両刀を奪はんとするにぞ、さてはと覚りて、小泉は何をと いふより腰なる一刀抜いて、先に進みし跡部の家来に傷を負はせ、近 寄る者共を左に払ひ右に倒せば、その間に瀬田はツと遁れ出で、庭よ り塀を乗越えて、息をも継がず大塩方へ走帰り、大事露顕に及びたる 旨急報すれば、後素を始め居合はす面々、さらば片時も猶予すべきに あらずとて、早速合図の狼煙を挙げ、我が家に火を放ち、平八郎自ら 采を取つて、救民、天照太神宮、八幡太菩薩、湯武両聖王と記したる 旗幟を朝嵐に翻へして、大小砲の筒先を揃へて、天満橋通りなる建国 寺を焼かんとせしかど、火発せず、即ち庄司義左衛門、大井正一郎、 大塩格之助を将として先鋒となし、平八郎自ら渡辺良左衛門、近藤梶 五郎等の諸士と、中陣に搆へ、瀬田済之助を後陣に将として、橋本忠             してう 兵衛、白井幸右衛門等は輜重を司どり、木製の大砲数台を挽きて、船             ひし 場に押渡り、豪商輩の肝を挫ぎくれんづと、近傍を焼立て、天満橋へ と押寄せたり。

衛門

   


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