Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.16

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大塩の乱関係論文集目次


『大塩の乱と其の社会的影響』
その2

黒正巌(1895-1949)

『社会経済史研究 第3巻第8号』
(日本評論社 1933)所収

◇禁転載◇


      一 (つづき)

 此の百姓一揆に於ける革命性の問題を私が偶然に発表して以来、色々厳格な批判を受けて居るのである。

 (今日小野武夫先生が御病気で御出になつて居らないので、博士の説を御批判すると云ふことは甚だ済まないのであるが、是亦他の機会に於て直接御話したら宜いと思ふが、一応順序として申上げたいと思ふ。)

 小野武夫博士は御承知の通り徳川時代の農民史の研究をされて居り、私共も裨益する所が非常に多いのであるが、同博士が曾て著はしたる所の書物に於て、博士は百姓一揆と明治維新とを混同されて居るやうに思はれるのである。博士は前に公にされた論文に於ては直接革命性ありと云ふことを論じて居るのではなく、唯だ百姓一揆を非常に抑揚されて居る。百姓一揆はロマンティクなものであり、今日の如き社会的動揺ある時代に於ては暴動的の行動に対して一見インテレストがもたれてゐる。さう云ふ関係からして先生が大いに抑揚されたのだらうと思ふのである。其の文句を見ると「由井正雪や天草一揆、大塩騒動が徳川幕府を中心として封建制度に対する大亀裂の予兆であるならば、所在に勃発した百姓一揆は既に欄熟に瀕した封建制度の小亀裂である」と云はれ、最後に「徳川時代の末葉に近付くに従ひ、各藩の財政困姐して、遂に市府の町人に叩頭しなけれぱならなくなり、又気鋭達識の浪士が東西に奔走し、志士を糾合して与論を強め、以て幕府の統制力を薄弱ならしめたるにもよるであらうけれども、是より先き各地の百姓等が封建的の圧迫に抗争したる一揆暴動の功労をも亦数ふべきである。勿論一揆暴動が維新の鴻業に寄与したる道行は極めて間接的であるが、又其の破壊力の作用は朝に起りて夕べに消ゆる線香花火の如くであつたけれども、然かも済し崩し的に封建制度の土台を緩がせその緊縛力を弛緩せしめ、衰弱したる武門階級の正体を世間に曝露した効果は多 大であつた。」と斯う云ふ風に言はれて居るのである。其の他同博士の「農民運動の現在と将来」なる書物に於て、百姓一揆の精神が大仕掛に実現せられ、全国的政治運動として結果したものが即ち明治維新であると云ふやうに議論をされて居るのである。

 私は斯う云ふ考を仮りに革命性肯定論と名付けたのである。所が其の後百姓一揆の革命性肯定論者が多くなつて来たのである。即ち百姓一揆はアクチイブに封建社会を破壊せしめるカがあつたと云ふ思想である。当時小野博士はそんな風には深く自覚されてゐなかつたのだらうと思ふのであるが、論戦を重ねてゐる中に其処へ多くの横槍が這入つて来て、泥仕合化したために一時打切られてゐた。所が最近出て来る書物を見ると又其の問題が蒸返されて、他の人々が議論をされて居る。殊にマルキストの方々の議論は大体肯定論である。其のやり方と云ふものは百姓一揆の事実の研究に依らないで、 一流の論法、即ち一段論法で片附けて居るのである。又、大概書いてある事が罵詈讒謗である。例えば平野義太郎氏の明治維新史などを見ると、封建制度を破壊せしめ、能動的、革命的性質を有さないと云ふが如きは諸国に於けるブルヂョア革命過程の農民戦争即ちペザント・ウオアに対する無智に基くと書いて居る。無智だとある。それから是は多分小林良正氏だつたと思ふが、革命性否定論は既に試験済であると書いてある。決して試験は済んでゐないのである。

 少しく余談になるが、此の百姓一揆の革命性に関する論争は何処に中心を置くべきかと云ふことが問題の別れ目になると思ふのである。私が百姓一揆に革命性なしと主張するのは主として百姓一揆に於ける指導精神と云ふものから出発して居るのである。所が今迄の歴史的研究は非常に誤つて居つた。私も誤りを犯して居つたのであるが、大体前にある文献とか史料に依つて、具体的に書かれたものだけを中心としてやつたのである。其の背後にある所の心理的な又は主観的な要素と云ふものを比較的等閉に附して居つたのである。併し段々研究を重ねて行くに従ひ、又それが文書に残つて行くプロセスを見ると其の背後にある所の心埋的、主観的の問係関係と云ふものが全然没却されて居るのである。即ち事件の発現形式と其の心埋的モーチイフと云ふものとは、非常に開きがあると云ふことを痛感して居るのである。歴史的事件の真相を理解する為には矢張り其の事件又は行動をリードして居る所の精神と云ふものを明にしなければならないと思ふのである。之に依つて初めて事件なり、行動なりの社会的、歴史的意義と云ふものが分つて来るのである。此の意味に於て百姓一揆の社会的意義と云ふものを明にし、随て又それに於ける革命性ありや否やと云ふことも、其の百姓一揆の主体である農民の根本思想、一揆の目的と云ふものを十分に研究しなければ決められないのである。所が私に対する非難と云ふものは、大部分はそれは研究されてゐないで、先程申したやうに、唯々表現の形式が爆発的である、破壊的であると云ふことからして、随て、又其の反射的の結果として、即ち封建社会を弛緩せしめ、封建社会の没落を促進したと云ふ反射的結果からして、革命性ありと議論をされて居るのである。

 私が最初書物を出した頃には百姓一揆は約六百位のケースであつたが、今日では既に千近くのケースが集つて居る。其の何れを見ても私は革命性ありと云ふことにはどうしても賛成することが出来ないのである。即ちどの百姓一揆も全部が、与へられたる、又与へられんとする所の苦痛の除去軽減を目的とするのであつて、是は即ち封建組織に内在的な必然的結果として起つて来る所のものである。是は皆其の苦痛を除去すると云ふことが問題であつて、苦痛の根源が何処にあるか、其の根源を治めよう、それを治めるには封建社会を否定し、新なる社会を作り出さうと云ふ革命的な思想に依つてリードされたと云ふ根拠を見出すことが出来ないのである。

 所が小野博士は私の否定論を反駁する資料として其の後二、三回論文を発表された。併し是は遺憾ながら駁撃の資料と受けとれないやうに思ふのである。若しそれが事実であつたとしても、それは徳川の封建社会と云ふものが非常に変質してブルジヨアの支配力が段々と擡頭して来た頃である。其の時代に起つた所の一、二の証拠に依つて之を徳川時代全体の一千も二千もある百姓一揆に及ぼして、百姓一揆は全部革命的なり、封建社会を否定する所の革命運動であると、斯う云ふ風に解釈するのは如何かと私は思ふのである。

 又一方に於て勤王運動が段々と起つて参つたので、勤王運動と百姓一揆とが競合した場合もあることは考へられる。併しそれは競合したと云ふだけであつて、それ以上の何ものでもないと考へる。それ故百姓一揆の頻発が其の反射的結果として徳川の封建社会を破壊に導いたと云ふことであつて、百姓一揆に革命性があると云ふのは、是は簡単に申せば、百姓一揆と云ふものは封建社会の存続する限り起つて来ると云ふことであつて、果して然らぱ封建社会と云ふものが革命的なりと云ふことと同じになつて来る。或は又天災地変の為に社会の生産力がなくなつて、それが為めに支配階級が社会の支配力を喪失したとするならば、天災地変も亦革命性を有すと云ふことになると思ふ。随て革命性ありや否やと云ふ問題は矢張り其の主体の指導精神と云ふものを論じなければならない。結果論から論ずるならば、 是は幾ら論じても尽きない。結局最後の結論は無智であるとか、馬鹿であるとか云ふより方法はないのである。又さうなるのはブルジヨア・イデオロギーであると一段論法で片附けるより仕方がないのである。それでは歴史の研究と云ふものは成立たない。今迄の私の否定論の材料と云ふものは百姓の反抗連動自体に基いてやつて居つたのである。然るに一部の人はそれ程事実を研究しないで、一つの立場から演繹的議論をして居るのである。けれども私は帰納的にやらうとして居るのである。故に是は二階と階下で撃剣をやつて居るやうなものである。其処で私は他の方面から革命性ありや否やと云ふ証拠を見直すと云ふことが宜いと思つて、外の革命的な運動と百姓一揆の運動とを対立させて見ようと考へて、徳川時代に於て最も明確に革命思想を標榜して出た所の大塩の乱を研究したのである。

 此の大塩の乱が起つた時分は、御承知の通り、世情甚だ不安であつて国民の大部分と云ふものは生活困難に陥り、人心は悪化動揺して居つた時である。其の時に此の暴動が起り、而も其の精神的影響といふものは非常に強かつたのである。それにも拘らず、それが百姓一揆には殆ど影響を及ぼしてゐないと云ふことを発見したのである。之は百姓一揆の革命性を研究する上に注目すべき事柄である。


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