Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.11 訂正
2001.5.20

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 定 謙」 その1

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


矢 部 定 謙

 
家系
 矢部定謙は通称を彦五郎といひ、堺奉行下総守定令の子である、祖先は藤原北家より出で駿河国有渡郡矢部に住し矢部を氏とした、世々今川氏に仕へたが、掃部定清の時に至り徳川家康の家臣となり四百四十五石を領した。これより譜第の臣となり、定令の時堺奉行となり下総守に任ぜられた、定謙は幼年より父に従ひ堺に至り、生長して家を継ぎ先手加番を勤務し、天保二年に堺奉行となり駿河守に任ぜられた、

天保四年七月拔擢されて大坂西町奉行に栄転し、在職三年治績大いに挙がり令名嘖々たるものがあり、七年九月江戸に帰り勘定奉行となり、九年四月西丸留守居に転じたが、十一年四月また小普請支配に転じ、十二年四月江戸の南町奉行に抜擢せられ、左近将監に任ぜられ二千石を領するに至つた。

定謙は資性温厚にして相当の学識もあり和歌をよくし、当時稀にみる能吏なりとの評判があつた、

然るに同年五月老中水野忠邦は大改革に著手し法令を雨の如く発布し、急激に人民の生活を統制せんとしたから、定謙はその処置を喜ばず、改革の施行に関しても忠邦の思ふやうに実行せざることもあつた、それであるから忠邦の股肱たる鳥居甲斐守忠耀の讒するところとなり、同年十二月町奉行を免じ差控を命ぜられ、翌十三年三月桑名の城主松平利之進に預けとなつた、即ち配流された訳である、定謙は桑名に至り憤に堪へず絶食して死去した、享年五十四であつた。(姓名家系大辞典)

 定謙が司法事務に関し令名のあつたのは堺及び大坂の町奉行時代のことで、江戸の勘定奉行及び町奉行の在職は短期であつたから、功績の顕著なるものはなかつた、併し行政的手腕は頗るめざましく、民政に付ては行き届いた行為が多く、大改革の施行に際しても人民に無理をせぬように取計らつたから、人民は悦服したけれどもこれが讒に遭ふ原因であつた。

 
大塩平八郎
後素
 定謙の事跡を述べるに当りては、最も関係の深かつた大塩平八郎後素のことに及ばざるを得ないから、先づ少しく平八郎のことを述べよう。

 平八郎は大阪天満の町与力であつた、元来大阪には東西の町奉行所があり、各々与力三十騎同心五十人が附属してゐる、奉行の職は幕府の命に依り更送するけれども与力及び同心は居付である、尤も官制上は一代限りとなつて居るのであるが、いつの頃よりか世襲の職となつた、この点は江戸その他の遠国奉行所の与力同心も同様であつた。

平八郎は父の職を襲ひ与力となつたが、幼より学問を好み藤崎(篠崎)三島(小竹の養父)の門に入り漢籍を学んだ、性質剛毅でまけぎらひのため学業大いに進み、また槍術及び砲術をも師に就き学び造詣の深きものがあつた。

 



鬼与力
与力勤務中文化八年(十九才の時)海賊三十余人を逮浦し、大阪市内の盗難を根絶し、次で浪人水野軍記の妖教事件を検挙し、文政十二年には奸吏の検挙に著手し、西町奉行所の与力弓削新右衛門に詰腹を切らせ、その部下十数人をそれぞれ処分したゝめ、大阪地方では平八郎の威名は喧伝せられ鬼与力との評があつた、これは当時の長官たる東町奉行高井山城守が平八郎を信任し、自由に手腕を揮はしめたからであつた、然るに山城守は老齢にて辞職することとなつた時、平八郎も断然決意し進退を共にし天保元年七月辞職した、これは壮心尚ほ鬱勃たる三十八歳の時であつた、  
洗心洞
これより先き平八郎は陽明学 に志し、之を修めて大いに会得するところあり、洗心洞といへる学舎を設け子弟を教育してゐたから、辞職後は専ら教育に力を尽した、平八郎は陽明学では既に大家となつてゐて、当時の名ある儒者又は国学者にも交友があり、殊に頼山陽とは親交を結んでゐた。  
定謙平八郎
を優遇す
 定謙が大阪の西町奉行となつた時は、平八郎は既に隠居してゐたのであるが、その学殖の深きと与力として大阪の事情に精通してゐるのを知り、定謙は屡々役宅に招き食事を共にし職務上参考となるべき意見を徴し、遂には自己の顧問として優遇をした。

それのみではなくその子鶴松を洗心洞に入学せしめ、平八郎に教育を依託した程であるから、平八郎もその意気に感じ、定謙を尊敬し心を傾けて之を輔佐した。

 
米価調節
 その頃は全国に亘り饑饉であつて、毎年各地に百姓一揆が起り米価は高くなつた、関東では米一升二百五十文に上つたが、大阪では百五十文から二百文を限りとして上げなかつた、これは定謙が幕府に上申し江戸廻米を緩くし、西国大名に大阪への廻米を増加せしめて調節し、そして一面堂島米穀市場の投機を取締り、米価を平準するに付種々機宜の計画をしたからであつた、定謙はこの米価調節により世人より大いに手腕ある奉行なることを認められ名声を博したが、これは平八郎の献策を用ゐたのであつた。

 天保七年七月東町奉行大久保讃岐守に代りて、跡部山城守良弼が東町奉行となつて著任した、良弼は老中水野忠邦の弟であり、兄の権威を借りて自ら恃むところがあると見え、著任の当時から傲慢なる態度であつた、

大塩平八郎の評判を聞かぬことはないが、その眼中に与力の隠居の如き者はなかつたから、平八郎を近づける考などは毛頭なかつた、その後同年九月定謙は江戸の勘定奉行に栄転したから、良弼は定謙に対し大阪における町奉行の故事ならびに職務上の心得となるべきことを話して呉れと頼んだ、

 
定謙平八郎
を評す
定謙は一応事務上の話をなしたる後、改めて良弼に対し「与力の隠居に平八郎と申す者がある、非凡の人物であるけれども、例へば悍馬の如き者であるから、その気を激昂せしめぬやうに致さるれば御用に立つべぎ者である、若し奉行の権威を以て御せんとせらるれば甚だ危険である、この事を御注意致して置く」と述べた、

良弼は黙つて聞き居り、その場を退き傍の人に語りて「拙者は平生駿河守(定謙)を名奉行と承り居つたが、只今拙者に向つて教ゆるところは只一与力の隠居の事である、奉行の心得となるべきこと を聞きたるに、与力の隠居を御する術を云為するとは何事であるか」と嘲りて話した、

之に依るも大塩の人物に付き毫も意に介せぬ様子であつたことが分る、然るに翌八年二月平八郎は乱を起したから良弼は周章狼狽して辛うじて之を鎮静した、当時世人は如何に平八郎が肝癪持であつても、学者として相当の分別もあるから、定謙が町奉行であつたならば大阪の騒動は起らなかつたであらうと評した。

     後年藤田東湖は定謙と交際してゐたから、東湖は彼に対し「良弼に事務引継の時大塩の隠居を御する話をしたといふ噂があるが真実であるか」と問ひたるに、彼は謙遜して明瞭に答へなかつたけれども、その口吻により世人のいへるところに相違なしと認めたと東湖は『見聞偶筆』に記している。

     平八郎は余程変りたる人にて狂人じみた行為があつた、その一例は或時定謙の役宅に招かれ酒食を共にした時かながしらという魚の炙りたるものが食膳に在つた。平八郎は時世を憤慨して談話している中、怒髪冠を衝くといふべきありさまになつたから、定謙は興奮せざるやう、さま\゛/になだめ諭したけれども益々憤慨し、かながしらの頭より尾までわり\/と噛砕きて食して仕舞つた。翌日家扶某は定謙に対し「昨夜の客人は狂人と相見えまする、ゆめゆめお近づけなさらぬように願ひます」と諌めた、定謙は「其方などの知るところでない」と答へ、相変らず平八郎を招き、談話を交へてゐた。(見聞偶筆)

 


「矢部定謙」目次その2

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