Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.11訂正
2001.5.21

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 定 謙」  その2

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


 
   大塩平八郎が大阪に乱を起こしたのは、革命を企てたのでもなく、天下をねらつた由井正雪の如き野心があつたのでなく、偏に世を憤り町奉行の政治の牧民官の実なきを怒り、一身の利害得失を度外視してまつしぐらに駈け出したと評すべきである、その目的とするところは天に代りて貪汚の官吏と豪奢な生活をなす富豪に痛撃を加へて、当時の窮民を救ふにあつた、

元来平八郎は平素より豪商の横暴を抑へ、人民の生活を安定せんとすることを主張してゐたが、天保七年十一月に定めたる大阪の米穀他所積出の制限令が出てから、大阪町奉行所の役人は人民の困窮を顧みず、その処置に苛酷のことが多かつた、

一例を示せば京都へは廻米を極度に制限して置き、そして江戸の方へは自由に廻米をした、そこで京都地方の者は米穀に窮し、年々饑饉で困つて居る際でもあり、京都附近で餓死した者が五万六千人の多きに及ん だ、

偶々近郷より米買出しに大阪に来る者があれば、一斗や五舛を買ひに来る者でも役人は容赦なく捕縛するといふ残酷なることをした。

平八郎はかやうな状況を見て与力たる養子格之助をして町奉行跡部山 城守に対し、官の倉米を出して人民を救済せんことを建議せしめたが、良弼は少しも之を実行しない、この事が平八郎を慣怒せしめ、肝癪が破裂して兵を挙げたのであつた、その計画は天保八年二月十九目早朝跡部山城守が見分のため役宅を出るのを待受けて之を狙撃し、然る後石火矢を放つを合図に四方の貧民浪人等一時に蜂起し、富豪の家宅に乱入し掠奪をなす手筈であつて、その準備中同志の者が同月十七日奉行所に密告して謀は漏 れるに至つた、

 
平八郎乱を
起す
平八郎は今は猶予すべきでないと思ひ、十九日の早朝自己の住宅に放火して、同志の者僅かに二十余人と共に奉行所の攻撃に出発したるに、追々に馳せ加はる者もあり、百姓町人を併せ四五百人となつた、この人数にて大砲を打ち石火矢を投げ散らしたから、市街の諸所に火災を起した。

 奉行所の方では前日よりそれ\゛/手配をし、城代土井大炊頭利位は城兵をして厳重に持場々々を守らしめた、そして奉行所の与力等の隊と暴民と衝突し、淡路町にて平八郎は敗れて父子共に逃走した、

戦は一日にてすみたるも火災は十九日より二十一日まで続き、武家町家等併せて一万八千余戸、町数にして百二十町焼失し、大阪開府以来の大火であつた。

 
平八郎の自
殺
そして平八郎父子は諸所に逃れてゐたが、また大坂に帰り来り油掛町の知人宅に潜伏中、奉行所の知るところとなり三月二十七日奉行所より捕方が向ひたるに、平八郎は火を放ちて自殺した。

平八郎の挙兵は右の如く大事に至らずして一日にで済みたるも、幕府の兵備の無力なることはこの事件で暴露したのであつた、幕末兵乱の端緒は此に開けたというべきである、

要するに事は跡部山城守と大塩平八郎との衝突であつた、大塩の乱があつてから定謙の人を見るの明あることの評判が一層高くなつた。

     大塩平八郎、格之助父子潜伏の場所が発覚したのは、意外のことよりであつて、捜査官の参考となるべきことがあると思ふから左に詳しく述べよう。

     大塩の隊は二月十九目、淡路町にて奉行所の兵に破られちり\゛/に四散し、平八郎父子は同志の十四人と共に、天神橋の東なる八軒屋より小舟に乗り東横堀の新築地から陸に上り、それより同志と別れ、父子は一行四人にて河内国恩知村に隠れ、次に大和方面にも行いて見たが、田舎は反て人目に立ちて潜伏の場所がない、反て大阪市内の繁華の街が隠れるには都合がよいと考へ大阪に帰り来つた、この時は同志とも別れ父子二人のみであつた、

    二月廿四日夜大阪油掛町手拭地仕入職美吉屋五郎兵衛方に至り、五郎兵衛に頼みて同家の離れたる隠宅にかくれてゐた、同人は大塩方に出入し勝手向きの世話をしてゐた者で、家族の外に下男五人下女一人都合十人暮しの家である。

     平八郎父子の所在不明にして生死の程も分らぬから、奉行所では苦心して百方捜査に手を尽くしたがその效がなかつた、市中の井戸又は堀なども取調べたけれども死骸が見当らないので、薩摩の国に落ちたとか北国筋へ逃げたのであらうとの風説もあつた。

     大阪城代土井大炊頭利位は下総国古河城主であるが、大阪近在の平野に一万五千石の領地を有し此処に陣屋を持つてゐた、平野より一人の下女が美吉屋に奉公して居り、三月の出代りに家に帰り、村の者に「美吉屋さんで炊く御飯は家内の人数よりも多いのであつて、毎日それを神様に供へるのだといつて旦那が何処かへ持つて行くが、不思議の事もあるものだ」と話したのが伝つて村中寄合の話題となつた、それを平野の陣屋の役人が聞込み城代に報告し、城代より町奉行に急報したから、与力内山彦次郎は五郎兵衞を密かに呼出し尋問したるに、先月廿四日より大塩父子を隠居所にかくまひ置きたることを白状した、それは三月廿六日夕刻である。

    そこで奉行所では美吉屋の近傍を厳重に手配りをし、消防の準備までして夜を徹し、二十七日の朝に至り内山彦次郎は組の者五十人許りを従へ、五郎兵衞の妻に案内させ平八郎父子の隠家のある狭き路地を進んだ、女房が家の内に向ひ「御役人が御出になりました」と告げると、平八郎はその家の雨戸を開け彦次郎と相対して顔を合せた、双方面識があるのである、平八郎は何と思つたか持てる短刀を投げたが当らなかつた、すると直ぐに雨戸を締めた、そこで組の者が戸を破つて入ろうとすると、予て準備し置きたるものと見え、家の中より火焔が吹き出て寄り付けないから、先づ消防 にかヽり手間を取つて居る内に、漸く火を消し家の内に入つて見たるに、平八郎は刀で咽喉を貫き俯伏し、格之助は胸を貫かれて死してゐた、平八郎が手を下して殺したやうであつた、彦次郎は死骸を検査し父子に相違なきことを確め、駕籠二挺に乗せ牢屋に運び後に塩詰とした、由井正雪の最後と似たところのあるのも不思議である。(史蹟会速記録今井克復談話)*1

 平八郎父子の裁判は奉行が怠慢であつたのみならず、幕府も遷延して決断に乏しく翌九年九月申渡があつた。平八郎父子に対しては「塩詰の死骸、引廻しの上大阪に於てに行ふものなり」といふのである、そして罪名は叛逆である、定謙は当時勘定奉行であつて幕府の評議の内容を聞き、叛逆を以て論ずる様子であつたから平八郎父子は叛逆に非ずとの意見を提出したけれども幕府は採用しなかつた。

平八郎父子に対する右の申渡は事実の認定に付ても識者より非難せられた点がある。

 


管理人註
*1 「史談会速記録」のこと。〔今井克復談話


(異説日本史)「大塩平八郎」その8
〔今井克復談話〕その6


「矢部定謙」目次その1その3

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