Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.7.18

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「徳川幕府の法制と裁判所の構成」
その3

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


        〔高札〕

高札

 武家諸法度、諸士法度のほかに人民一般に対しては制札を以て布告した。それは高札と称し日本橋の外品川、板橋、千住などの江戸の人馬継立所(六ケ所)に建てたものであつた。その文詞は左の通りである。
    一 親子兄弟夫婦を始、諸親類にしたしく、下人等に至るまで是をあはれむ
      べし、主人有る輩は各其奉公に精を出すべき事。
    一 家業を専にし惰る事なく、万事共分限にすぐべからざる事。
    一 いつはりをなし、又は無理をいひ、惣じて人の害になるべき事をなすべ
      からざる事。
    一 博奕之類一切に禁制之事。
    一 喧嘩口論をつゝしみ、若其事有る時猥に出合べからず、手負たるもの隠
      し置くべからざる事。
    一 鉄砲猥に打つべからず、若違犯之もの有らば申出べし、隠し置他所より
      あらはるゝに
      おゐては其罪重かるべき事。
    一 盗賊悪党の類あらば申出べし、急度おほうび下さるべき事。
    一 死罪に行はるゝもの有時、馳集るべからざる事。
    一 人売買かたく停止す、但男女の下人或は永年季或は譜代に召置事は相対
      に任すべき事。
     
        附 譜代の下人又は其所に住来る輩他所へ罷越、妻子をも持有付候
        もの、呼返すべからず、但罪科有る者は制外の事。
    
    右條々可相守之若於相背は可被行罪科者也。
    
      正徳元年五月 日      奉行
 右は高札の全文であるが、「徳川史料」「目本古代法典」等を見ても、高札の全文の古きものは正徳元年即ち六代将軍家宣襲職の第三年目の分のみが記されてあつて、その以前のものは全文が確には分らない。この高札の下に毒薬の事、偽造貨幣等の規定あるものがあり、又その下には放火に関する規定が懸けてあつた。即ち上中下三段の懸札である。

 然るに「徳川実紀」「徳川十五代史」を調べてみると、元和二年より江戸市中には高札を建てたことが明であつて、同年十月の分の冒頭には武士の若党仲問の抱入のことが規定せられ、その後又文詞を度々改めた。五代将軍綱吉は襲職の初め天和元年に評定所の式法を定めて裁判の進捗を図り、翌二年五月諸国に高札を建てた。その第一傍即ち上段の分の冒頭には

    一 忠孝をはげまし、夫婦兄弟諸親類にむつまじく、召仕之者に至る迄憐愍
      を加ふべし、若不忠不孝之者あらば可為重罪事。
 




高札の抹殺
とあり、その他は正徳元年の分と大同小異であつた。

然るに元禄十五年十二月十四日浅野内匠頭の遺臣大石内蔵之助等四十六人が主君の意趣を継ぎて吉良家に侵入し、上野介義央を討取たるに、幕府はその処分に付百方研究を遂げ、翌十六年二月四日一同に切腹申渡すことに決定し、即日預り居りたる各大名の邸内に於て之を執行した。

赤穂浪士の処分に付ては当時の学者間にも議論があり、将軍綱吉も判断し兼ねて上野輪王寺の宮様の御意見をも伺つた程であつたが、民間では助命論が多数であつた。

然るに右の忠臣一同に切腹を申渡したから憤慨した者があつたと見え、二月四日の夜日本橋の高札の「忠孝をはげまし」の部分を墨で塗り消した者があつた。これは幕府の赤穂浪士に対する処分は高札の規定に泥を塗つたものだとの意を諷したのであつた。

町奉行所の役人は立腹し厳重に捜査したが誰の所為か分らない、そこで取敢へず高札を書き改めて建てたるに、間もなく泥を塗つて忠孝云々の部分を消した者がある。捜査したがこれも分らない。

又新に高札を建てたるに、今度はその高札を抜いて日本橋の川へ投げ捨てた者があつた。夜中役人は見張をしてゐるのにこの始末であるから困つてゐると、品川、千住、四谷の高札にも忠孝云々の部分に墨を塗つたり泥を打付けたりする者があつて役人は困却して仕舞つた。

幕府は御制札をよごす科は重罪の曲者なりと、町奉行所の盗賊改方に厳重に申渡し厳しく詮議を遂げたけれどもどうしても犯人が分らない。老中等は弱り果て将軍綱吉も我を折り遂に忠孝をはげまし云々を削除し、親子兄弟夫婦を始云々と書き改め建てたところ、その後はいたずらをする者はなかつた。(元正間記)幕府は右の如き事由にてこの以後忠孝云々の文字を高札には書かなかつたけれども、忠孝を奨励することは他の法規において常に明にしてゐた。

 徳川幕府は以上の諸法度を厳正に遵守し、上は公卿より諸大名、武士または諸宗の門跡僧侶に至るまで之を励行せしめ、苟も法度に連背する者に対しては毫も仮借するところがなかつた。

福島正則、加藤忠広の配流も右法度の通用であり、恐れ多くも後水尾天皇の紫衣勅許に対し奉りて、不敬の処置を敢てしたのも法度励行を口実としたのであつた。

幕府が仮借するところのなかつたのは外様大名に対してのみではなく、親藩に対しても同様であつて、元和二年越後高田城主松平忠輝(家康の第九子)を伊勢朝熊に配流し、元和九年越前福井城主松平思直(家康の孫)を豊後の日田に配流し、寛永九年駿河大納言忠長(将軍家光の弟)を甲府に蟄居せしめた。(忠長はその後自殺した)右のごとき始末であるから上下挙げて法規に違背せざらんことを心掛け、天下は静謐となり戦国時代の殺伐なりし気風は一変した。

     家康が禁中竝に公家に対する取締法規を制定したのは、大義名分よりすれば失当の甚しいものであり、皇室の尊厳冒涜であつた。弁ずる者は当時の宮中が綱紀素乱していて公卿では取締りができなかつたから、家康は法度を制定したのだという、尤も、左少将猪熊教利外七、八名の若き公卿と女官広橋局等との醜行事件は、後水尾天皇の勅命により家康が関係者を駿府に呼下してそれぞれ死刑又は遠流に処したのであるから、その取締りの為に慶長十八年に制定した公家衆法度の如きものは或いは幕府の権限内のものとも論じ得らるヽかも知れぬが、慶長二十年七月関自二條昭実と家康秀忠連署にて公布した「禁中竝公家中御法度」には天子諸芸能の事を規定し天皇の御学問のことを定め、又天子礼服の事などをも規定したのは、征夷大将軍たる職に在る者の関与すべきことではないと思う。徳川幕府が二百五十年間朝廷に対し奉りて、やヽもすれば不遜の態度に出たことのあつたのは家康が俑を作つたからである。

 


高札


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