『名判官物語』 中央公論社 1941 より
適宜改行しています。
〔評定所〕 | ||
評定所 御用部屋 |
家康は岡崎時代には家老年寄を以て庶政を取扱はしめたが、別に政庁を置かず家康の居室に於て政務を 議した。江戸時代になりて諸役人を会同して政務を議する所を評定所と名づけた。 その後に至り家老年寄を老中と称するようになり、その私宅に於て評議するを宅寄合と称した。三代将軍の時に至り寛永十三年正月和田倉門外の辰之口に始めて評定所を設けた。併し重要の政務は従来の通り城内の将軍の側に於て之を取扱つた。 四代将軍の時に老中の直所が出来て之を御用部屋と称した。之には上の間と下の問があり、上の間は大老、老中の部屋、下の間は若年寄の部屋であつて、奥右筆(今の書記官長)の外は役人と雖も一切出入を禁ぜられてゐた。即ち御用部屋は幕府の内閣であつた。 評定所は初は一般政務を処埋する役所であつたのが、辰之口に置かれてから民刑の裁判事務を主として取扱う所となり、後には裁判所の別名となつた。 評定所の事務は寺社奉行、勘定奉行、町奉行即ち三奉行と称せられた役人が主として之に当り、各その支配に属する事件の裁判をした。若し事件の性質が他の奉行の事務に関係あるとき、又は重大なるときは三奉行協議を遂げた。この評議には老中一人必ず参加し、大目付及び目付も関与した。その外に側用人及び偶江戸に在府の所司代、遠国奉行等にも出座を命ぜられた。これは傍聴者の資格である。 評定所専務の役人には留役(先例等を調査する書記長の如き者)目安読みと称する儒者出身の者がゐた。右の評定所の構成員を評定一座と称した。
目付は若年寄の耳目となり主として旗本諸士の監督をなし、その非違を糾弾する職であつて、東京控訴院及び地方裁判所の検事に似てゐる。その下に徒目付、小人目付があり広く陪臣などの非行を監視した。 | |
将軍の裁判 |
評定所の寄合即ち合議制度は寛永八年より始まつた。この頃は大事件は鎌倉幕府の源頼朝の例に従ひ、将軍自ら裁判の任に当り、下調は老中がその役宅に於て之をなした。 大事件にあらざるものは老中の役宅に於て審判した。後に記す伊達家の紛争を老中又は大老の役宅に於て、審判したのはその例である。 町人百姓の事件は評定所に於て審判せずして、伝秦屋敷が伝奏不在の時は空いているから之を使用したこともあつたが、多くは町奉行が奉行所に於て処理した。 併し判決するときは必ず老中の指揮を請うた。申渡書の右方上部に何某殿御指図と付記してあるのはその事を明らかにしたものである。 | |
口頭審問 |
裁判は口頭弁論主義を原則としたから開廷日が定めてあつた。試みに「憲教類典」に依りて寛文十二年十一月の分を挙げて見ると、この月の寄合日は二の日であつて即ち二日、十二日、二十二日が開廷日であつた。 右の日に罷出る輩の事として掲げてある中に、老中では松平伊豆守(信網)、阿部豊後守(忠秋)堀田加賀守(正盛)がある。この中一人が必ず出座するのである。大目付では水野河内守(守信)柳生但馬守(宗短)があ る、目安読の儒者では林道春と林永喜とがある。その他の役人の官名を見ても出座した者は当時の名臣と称せられた人々であるから、如何に幕府が評定所の事務に重きを置きたるかゞ推察せられ るのである。
又側用人も将軍の命に依り評定所に出座し、その情況を報告してゐたが、その中で有名な人を挙ぐれば、五代将軍綱吉の襲職した延宝八年八月には牧野備後守成貞が出座し、元禄七年十一月には柳沢出羽守保明(後の大老柳沢吉保)が出座した。その外に間部越前守詮房(将軍家継の摂政と云はれた人)田沼主殿頭意次(のちの老中)等の名もある。 五代将軍の元禄時代には能楽などが流行し、士気は頽廃し政務が挙らなかつた。この頃より後は評定所の事務も進捗せず奉行は留役に打任せ置き、訴訟は延滞勝であつたから正徳の頃より留役を罷免し奉行自ら事に当り刷新を図つたことがあつた。(折たく柴の記) | |
裁判手続 |
○ 評定所の裁判手続に付ては元和以来単行法規はあつたけれども、式法として定めたものは天和元年正月十二日将軍綱吉の公布したものを嚆矢とする。その要旨を挙ぐれば 一 評定所へは役人のほか一切出入を禁じ、音信交通をも禁ずる。 一 訴訟当事者が老人、若輩または病者なるときに限り介添者を許す。 一 評定所内は御直参たりとも刀脇差を禁ず。 (これは伊達家の紛争の時より厳禁となつた) 一 訊問はその筋の役人之を勤め、惣座何人も問を発することを得。 一 遅参の者は遠近を考え、軽重により牢舎または過料に処す。その外開廷日、出座の時刻、証拠準備、連日に渉る審理の場合に於ける規定などがあるけれども之を略した。(徳川十五代史)。
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