Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.7.25

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大塩の乱関係論文集目次


「徳川幕府の法制と裁判所の構成」
その5

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


        裁判所の管轄


裁判所の管
轄

  裁判所の管轄は甚だ複雑であつて詳細に記述することは容易でないからその概要を左に掲げよう。

     寺社竝にその門前及び朱印地に関する訴訟は、寺社奉行(定員四人)の担任であつた。

     江戸府内の町民の訴訟は町奉行(定員二人)の担任であつた。

     徳川氏の直轄領(関八州とその他の地方に散在するもの)の訴訟は勘定奉行(定員四人)又は代官の担任であつた。勘定奉行は財務当局であつて訴訟はその本務でないから、右の訴訟を掌らしむる為に勘定奉行中に公事方と称する奉行が置かれてあつた。

     上方八個国即ち五畿内、近江、丹波、播磨の訴訟は、京都大阪の町奉行の担任であつた。

     五街道即ち東海、東山、甲州、日光、奥州の街道筋の宿駅、人馬等に関する訴訟は、大目付の担任であつた。
     宿駅、人馬の事は一朝有事のときに徴発事務に属することであるから、平素より軍奉行たる大目付をして道中奉行の職に当たらしめてあつたのである。

     禁裏、宮家、門跡、公家に関する訴訟は京都所司代の担任であつた。

     右に掲ぐる以外の各地方の訴訟は、遠国奉行、郡代及び代官(勘定奉行の部下)の担任であつた。

 右の寺社、勘定、町の三奉行にはそれ\゛/役宅があつたから、その権限内の重大ならざる事件はその役宅に於て裁判をした。

 遠国奉行と称したのは江戸を中心として遠方在任の奉行という意であつて、京都、大阪、伏見、駿府の町奉行、長崎、浦賀、奈長、山田、堺、佐渡、日光、下田、函館等の奉行を指称したのであつて、幕府直轄地の裁判を掌つてゐた。

     浦賀奉行は享保五年に始めて置かれたもので、主として船舶に関することを掌つた。下田奉行は浦賀奉行を置きし時廃官となつたが、天保十三年に復活し、後一時廃止したが再び之を置いた。函館奉行は始め蝦夷奉行と謂ひ、後に松前奉行と改め、再び函館奉行と称した。また天保十四年以来新潟奉行を置き、徳川幕府の安政の官制改革後に至り、更に遠国奉行として神奈川、兵庫に奉行を置いた。

     右の外に近江に大津奉行、大津蔵奉行、駿河に清水奉行、遠江に荒井奉行、本坂奉行、相模に走水奉行、三崎奉行、武蔵に羽田奉行を置き、街道筋の警衛又は船舶の取締りをなさしめたが後に之を廃止した。

 郡代は郡奉行とも称し、陣屋または出張所と称する役所に於て領民に関する訴訟を裁判した。郡代では関東郡代(伊奈氏の世襲)美濃郡代(美濃、伊勢二国を管轄す)西国郡代(豊後、豊前、筑前、日向等を管轄す)、飛騨郡代(飛騨、加賀、越前、美濃の一部を管轄す)などが勢力があつた。
     関東郡代は御代官の頭と称せられ、禄高は四千石であつたけれども、代々伊奈半左衛門の世襲であつたから、伊奈氏は関東方面では大なる勢力があつた。伊奈氏の先祖は伊奈熊蔵忠次であつて、徳川家康が伏見に在城し諸大名の統御に苦心してゐた頃、関東一切の事を忠次に命じて支配せしめたるに、忠次は諸代官を指揮して善く民政を行つたので、その功により家康が江戸に帰城し征夷大将軍となりたる後も相変わらず諸代官の指揮を命ぜられ、後に世襲となつた。

    伊奈氏の支配した領地は総計百万右もあつて江戸馬喰町に役宅を賜はり此処にて関東八州の事務を執つていた。評定所に出座の時は勘定奉行の吟味役(公事方)の下に列席したが、後には老中 の直隷となり吟味役の上席に列することとなつた。寛政四年に伊奈右近将監忠尊は勤役中不正の事ありて免官となり、所領は没収せられ、関東郡代の職は勘定奉行之を兼務してゐたが、元治元年に至り再び郡代三人を置いた。(有司勤仕録泰平年表)

 代官は幕府の直轄領を支配する役人であつて、勘定奉行に隷属しこれも亦陣屋を置いて軍務を執り訴訟 を裁判した。要するに代官は郡代の小なるものにて、これも亦世襲の役人であつたから凡庸の者多く、領民に対し威権を弄し賄賂を貪つてゐた。幕府は屡布告を出して代官を戒飭したけれどもそ の効果はなかつたやうである。講談小説などに代官の横暴の事実が伝えられてゐるのはこれが為である。

代官は全国を通じて四十人乃至五十人の定員であつた。大概五十俵位の禄高であつて別に職務俸がないのに豪奢な生活をしてゐたから、領民より賄賂を取るに至るのであつた。又属僚に手附手代と称する者があつたが、この役人がまた各地方ともに不正の事をしてゐたのであつた。

    ○

 幕府直轄地のほか一万右以上の大名に対しては譜代と外様とを問はず奉行に於て独立して裁判をなすことが認められた、それであるから前田、島津、黒田、細川等の各大名は領国内に於て裁判所を組織してゐた、併しその裁判所は幕府より発布する法令に準拠して裁判をなすのが本則であつた。

幕府よりは外様大名の死亡その他の原因にて家督相続人が領主となると巡察の役人を出せしめてて視察し、又は将軍が新に襲職 した時幕府の御使番が諸国を巡視し、諸大名の民政の状態を視察せしめたから、暮府の法令は大名の領国内にもよく行はれたのである。

     将軍の自ら使用した探偵は御庭番を勤むる麾下の侍であつて、これは隠密と称して或大名の民政の状態などを取調べるためにその地方に出張せしめられてゐた、講談などで柳生但馬守宗矩がその子十兵衛三厳を勘当し数年の後大久保彦左衛門の仲裁にて帰参を許したというのは、その実但馬守の命を受け九州の大名の動静を偵察したのであつた。

 
 


「徳川幕府の法制と裁判所の構成」目次その4その6

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