『名判官物語』 中央公論社 1941 より
適宜改行しています。
裁判所の管轄 | ||
裁判所の管 轄 |
裁判所の管轄は甚だ複雑であつて詳細に記述することは容易でないからその概要を左に掲げよう。
二 江戸府内の町民の訴訟は町奉行(定員二人)の担任であつた。 三 徳川氏の直轄領(関八州とその他の地方に散在するもの)の訴訟は勘定奉行(定員四人)又は代官の担任であつた。勘定奉行は財務当局であつて訴訟はその本務でないから、右の訴訟を掌らしむる為に勘定奉行中に公事方と称する奉行が置かれてあつた。 四 上方八個国即ち五畿内、近江、丹波、播磨の訴訟は、京都大阪の町奉行の担任であつた。
五 五街道即ち東海、東山、甲州、日光、奥州の街道筋の宿駅、人馬等に関する訴訟は、大目付の担任であつた。 六 禁裏、宮家、門跡、公家に関する訴訟は京都所司代の担任であつた。 七 右に掲ぐる以外の各地方の訴訟は、遠国奉行、郡代及び代官(勘定奉行の部下)の担任であつた。 遠国奉行と称したのは江戸を中心として遠方在任の奉行という意であつて、京都、大阪、伏見、駿府の町奉行、長崎、浦賀、奈長、山田、堺、佐渡、日光、下田、函館等の奉行を指称したのであつて、幕府直轄地の裁判を掌つてゐた。
右の外に近江に大津奉行、大津蔵奉行、駿河に清水奉行、遠江に荒井奉行、本坂奉行、相模に走水奉行、三崎奉行、武蔵に羽田奉行を置き、街道筋の警衛又は船舶の取締りをなさしめたが後に之を廃止した。
伊奈氏の支配した領地は総計百万右もあつて江戸馬喰町に役宅を賜はり此処にて関東八州の事務を執つていた。評定所に出座の時は勘定奉行の吟味役(公事方)の下に列席したが、後には老中 の直隷となり吟味役の上席に列することとなつた。寛政四年に伊奈右近将監忠尊は勤役中不正の事ありて免官となり、所領は没収せられ、関東郡代の職は勘定奉行之を兼務してゐたが、元治元年に至り再び郡代三人を置いた。(有司勤仕録泰平年表) 代官は全国を通じて四十人乃至五十人の定員であつた。大概五十俵位の禄高であつて別に職務俸がないのに豪奢な生活をしてゐたから、領民より賄賂を取るに至るのであつた。又属僚に手附、手代と称する者があつたが、この役人がまた各地方ともに不正の事をしてゐたのであつた。 ○ 幕府直轄地のほか一万右以上の大名に対しては譜代と外様とを問はず奉行に於て独立して裁判をなすことが認められた、それであるから前田、島津、黒田、細川等の各大名は領国内に於て裁判所を組織してゐた、併しその裁判所は幕府より発布する法令に準拠して裁判をなすのが本則であつた。 幕府よりは外様大名の死亡その他の原因にて家督相続人が領主となると巡察の役人を出せしめてて視察し、又は将軍が新に襲職 した時幕府の御使番が諸国を巡視し、諸大名の民政の状態を視察せしめたから、暮府の法令は大名の領国内にもよく行はれたのである。
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