『名判官物語』 中央公論社 1941 より
適宜改行しています。
法典の編纂 | ||
二代将軍秀忠の時に島田弾正忠守利(利政とも云ふ)は、自己が前将軍以来二十年間も江戸町奉行を勤めた経験よりして、裁判事件の実例を編纂して之を後の奉行の参考となさんことを上申したるに、秀忠は裁判事務には家康同様深く心を用ゐる人であつたが之を許可しなかつた。 その理由とするところは「凡そ訴訟は同じやうに見えても真相には種々の異なりたる事件のあるものであるから、その真相を審かにすべきものであるのに、先例の法を立てゝ置くときは、事件の外形のみを見て直に先例に則りて裁判するであらう、それでは事件の各場合に付て真相を明に取調べぬやうになる恐がある、又先例を定めて置くときは、先例に定めなき事柄は、如何なる悪事をはたらきても宜しといふことにもなりて不都合である」との趣旨であつた。 |
御定書百ケ 条 |
然るに後年に至りては、先例とはなさざるも事件の裁判を書き留めて置きたる所謂留書と称したものが段々に増加して来て、事務上の不便は尠くなかつた。 その後数代の将軍を経て社会の事物は複雑を加へて来たから、八代将軍吉宗の時に法典を編纂する必要を認め、先づ儒者たる室直清(鳩巣)高瀬喜朴に明律、唐律等を調査せしめ、前摂政近衛家熈卿より贈りたる唐刊の六典を参酌して元和以来の法令を本として草案を作り老中松平左近将監乗邑を総奉行とし、評定所一座の者を奉行として法典の編纂に著手せしめ、寛保二年四月完成した、これが所謂御定書百ケ条である。そして十一代将軍家斉の時に至り之に増補を加へたるものが、寛政類典である。 |
寛政類典 |
元来徳川幕府は不文法により裁判をなすを適当としたのであつたが、元禄以来裁判およびその手続等に付て種々の弊を生じたので、将軍吉宗は右の弊風は成文法なき為に発生したのであると認め、二代将軍以来の方針を改め断然法典を編纂することに決したのであつたが、御定書百ケ條の末文には 右御定書之條々、元文五庚申年五月、松平左近将監を以被仰出之前々、被仰出候趣、竝先例其外評議之上追々同之、今般相定之者也。 寛保二壬戌年三月廿七日 寺社奉行 牧野越中守 同 大岡越前守 町奉行 石河土佐守 同 島 長門守 御勘定奉行 水野対馬守 同 木下伊賀守 同 神谷志摩守 右之趣達 上聞相極候、奉行中之外不可有他見者也。 寛保二壬戌年四月 松平左近将監との奥書がある、故に右百ケ条なるものは人民に公布した法律ではなくして、奉行の遵守すべき内規であつて、奉行以外の者には絶対秘密のものであつた。
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