Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.1

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「徳川幕府の法制と裁判所の構成」
その7

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


        裁判の方針


裁判の方針

 徳川百ケ条の制定せられるゝまでは不文法が行はれたのであつて、裁判の基礎となるべき方針が不明のやうであるが、幕府の老臣の間には一定の方針があつた。それが単行の布告となり、又は高札となつて表示せられてゐた。

要するに幕府は君臣父子の大倫を以て、人民を指導するを裁判の方針として、忠孝を励まし人心を正しうし、風俗を厚うするを本旨としてゐた。

故に親子間の争は親次第たるべく、主人と家来又は雇人との争も主人を理分とする方針であつた。

殊に武士道を重んずることに付ては大いに注意を払つてゐたのであつて、士に似合はしからざる所業仕るべからずといふ事が旗本の諸士に対する法度中にも明記してあつた。

 






武士の意地
一例を挙ぐれば、三代将軍家光の時寛永五年八月五日、目付たる豊島刑部少輔信満は私怨の為に、老中井上主計頭正就(遠江横須賀藩主)を西の丸の殿中にて殺した。家光大いに立腹し老中に対し「殿中にて狼籍をなすは、場所柄をも弁へざる不持の所業である、将来一般の戒の為厳重に処分すべし」と命じたから、豊島家の一族尽く誅せられんとした時、老中酒井忠勝は「小身の武士が遺恨ありて武士の意地を立てんとする時に於て、大名に対してはその邸宅にても又途中にても家来が多く警護して居り存分にすることは出来ない、旗本の人々が我等如き者に意趣がありて刃傷をなさんとするには殿中がよき場所である、死を決して 武士の意地を立つるは武士道を磨く訳であるから、殿中を汚したからとて厳罰すべきものではない」と述ベ、且つ斯の如き者に対し重い処分をすることになれば、武士の意地はすたり、百姓町人と異ることはないやうになるであらうと大いに士道の重んずべきを主張し、他の老中も同意したので、家光も遂に翻意し、豊島の名跡を改易しその子主膳にも切腹申付け(一説には追放とある)親族一同に対しては何等の処罰はなかつた。

信満が正就を恨みたるは婚約を違変したのであると伝えらるヽが真相はわからない

(寛政重修譜紀年録)忠勝の意見は幕府の方針となり、五代将軍の時若年寄稲葉石見守正休(美渡加納藩主)が大老堀田筑前守正俊を殿中にて殺したときも、稲葉家は改易のみにて他の親族には処罰はなかつた。

     この刃傷の日は堀田家は見舞客で大混雑であつたが、稲葉家へは何人も見舞に行く者なかりしに、水戸の黄門光圀卿は下城の帰路、供廻りを連れて稲葉家の玄関に至り、老母を呼び出し「今日石見守、命を捨てヽ御奉公だて、さりとては感じ入つたり、必ず愁傷あるべからず」と懇ろに慰めたので老母は感泣したが、この事は大評判となつた、光圀卿の見舞いは武士道奨励のための慰問であつたと思はれる。
 右の外に幕府が武士の廉恥を重んずべきことを奨励した例を挙ぐれば、一人の士が髪を結び居る時、傍輩の士が切り入りて後より不意に切りかけたるに、髪を結ひ居りたる士は直にこの者を組伏せ、その脇差を奪ひ取りて之を殺した事件があつたとする、この問題を裁判するとき、初に傍輩の士が声をかけずして不意に斬りかヽりたりとせば、これは士の道に背きたるものとして、この者は殺され損となるのである、換言すれば傍輩たる者が斬りかヽるべき相当の理由がありても、声をかけずして不意に切りかヽることは、士道に背くものとして問責した。又少しにても卑怯の行為があると之を厳責した。又狼藉者が主人の供先へ喧嘩をしかけたとき、之を斬捨てず見逃した時には、その者は穏便の取計をしたのであるけれども、これも事情によりては勇気なきものとしてその禄を没取した実例もある、要するに武士に似合わざる所業を咎むるのである。

 
切捨御免
 さればといつて如何なる場合でも切捨御免として放任したのではない。寛永六年六月十七日にとして左の達しを出した。
    人を切候もの有之ば、其近き屋敷之者出合、何方迄も追懸留置、刀脇差を取、子細を相尋、奉行所へ可注進若刀協差を不出、すまひ候はゞ、打殺し候ても不苦候、右のも追駈候時は、其先々の屋敷よりも急度出合可留置もの也。然は不寄昼夜屋敷の前にて人を切候事を不知に於ては其屋敷の番の者可為油断もの也。(以上江城年録徳川十五代史)
之に依るも士が人を斬りたる場合に全然之を検挙せざる方針でなかつたことは明白である。

 
 


「徳川幕府の法制と裁判所の構成」目次その6その8

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