Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.4

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大塩の乱関係論文集目次


「徳川幕府の法制と裁判所の構成」
その8

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


        司法事務の変遷
    

 徳川時代の司法事務を概括して観察すると、三代家光の頃は名相賢臣雲の如く居り、いずれも家康の方針に従ひて厳正にその事務を掌り、また将軍自らも大事件に付て裁判をした程であつたから、形式上の制度は見るべきものはなかつたけれども、司法事務の実質は実情の社会状態に照らし理想的のものであつた。

五代綱吉の時に至り漸く整ひ評定所も整頓し綱吉自ら裁判の衝に当たり革新に勉めたが、その晩年の頃より綱紀が弛廃し、司法事務に付ても種々非難すべきことがあつた。六代家宣、七代家継の時は、新井白石なども活動して改善を図つたから可もなし不可もなしと評すべきであつたらう。

八代吉宗の時に至り庶政を刷新し老中松平乗邑、町奉行大岡忠相等の努力にて司法事務は改善せられたが、十代家治の時田沼意次が老中となりてより、家治凡庸にして意次の為す儘に任したるを以て、江戸の風紀は全く頽廃し賄賂は殆ど公然行われ、司法事務の威信は地に堕ちた。

意次免職後十一代家斉の時、松平定信老中となりてより綱紀を振肅し、司法事務も亦面目を改むるに至りたるも、在職僅に七年にしてこの名相も或事情に依り突然羅免せられたから、十分の改革は出来なかつた。

その後は幕府は外交と内治とに多忙であり、名奉行と称すべきものには根岸鎮衛、矢部定謙、遠山景元の如き人が居りたるも、四囲の事情に依りいづれも十分に手腕を振ふことが出来ずして罷められた。その後は司法事務に付て何等みるべきものなかりしに、十四代家茂の時大老井伊直弼が安政の大獄を起し、多数の勤王の志士を理由なく処刑した為に、司法の威信を全然失墜するに至り幕府瓦解の原因を作つた。

     徳川幕府の初期には重要なる事件は将軍自ら裁判に当たるか、又は傍聴をしたが、後世に至りては将軍凡庸の人多く裁判事務に無関心となり、側用人も評定所に出座せぬやうになつた。

    然るに幕府の末期に至りては将軍が吹上の上覧所に御成になり、武芸又は舞楽等を上覧になる時に、重要事件の主任たる町奉行が事件のことを上申した、之を公事上聴と称した。右の如く徳川幕府の末期には、将軍は裁判事務には甚だしく疎遠になつてゐたのであつた。

 
 


「徳川幕府の法制と裁判所の構成」目次その7その9

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