天下のお台
所
蔵屋敷
お留守居と
蔵元
蔵米の売買
空米切手騒
動
掛屋
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大阪は昔から町人の都、天下のお台所といはれ、今日でも、日本の経
済の心臓とまで称されれて居る。本日は少しこの方面のことから、江戸
時代、大阪における唯一の大事件、大塩平八郎の乱のことについて述べ
ることゝする。
一、大名の蔵屋敷
江戸時代には、諸大名が大阪に蔵屋敷といふものを置いた。江戸堀、
土佐堀、薩摩堀その他水運の便のあるところを選んで置いたが、これは
諸大名が、各々その領地の特産物を売捌く為めのもので、米は何といつ
てもその主もなるものであつた。米の外では,土佐藩では鰹節、備後福
山藩では畳表、徳島藩では藍玉といつた風で、この蔵屋敷には、お留守
居といふ役人が居り、蔵物の出納を掌つてゐたが、後には実際の仕事は、
(1)
出入の町人――蔵元といふによつて行はれた。今の鴻池家の如きは掛屋
であつたが、これ等大名の蔵元をも勤め、扶持前を貰つて居た。幾つも
の蔵元をも勤むるから、扶持米も多いが、それにも増して利潤はなか/\
多かつた。
蔵米の売買には、米切手を用ゐたが、これで売買出来るのは、蔵名前
の堂島仲買人に限られてゐた。切手は大体一枚十石券であつたが、実米
不必要の時には、その儘預けて置くことも出来たので、後には大名が、
財政が苦しくなると、この預米を引当に空米手形を発行し、大騒ぎした
(2)
こともあつた。文化十一年の空米切手騒動の時には、或る大名は四十何
万石の空切手を出してゐて、これが整理に、元米二十年賦、利米はその
後九年賦といふこととで解決したといはれる。
大名は大体大に威張つて居たが、大阪町人には頭が上らなかつた。と
いふのは、借金も家来の知行半分位まではよいとして、それ以上は無理
であり、百姓から年貢を多く取り立つれば騒動が起る。結局大阪町人に
借金するやうになつた。それで掛屋の機嫌を損ぜぬやう、大に努めたも
のである。ちなみに大阪で、掛屋とし有名であつたのは、鴻池善右衛門、
天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛などで、江戸幕府においても、これ等の
大町人には、屡々御用金を仰付けた。その会所に集まつて、金相場をや
つたのが、北浜の株式取引所の濫觴といつてもよからう。
(1) 掛屋 或は銀掛屋といひ、蔵物を売つた代金を預かる町人を云つた。
(2) 或る大名 筑後藩。
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