Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.11.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩の乱」

その4

久保田辰彦 大阪毎日新聞社 1940

『大阪郷土史』所収

◇禁転載◇

一二 大塩の乱(4)管理人註













天保の餞饉
























檄文の趣旨

四、挙兵の真相  平八郎は三十八歳の時、家職を養子格之助に譲り、その後は専ら子弟 に教授した。その豊富なる学識と、謹厳熱烈なる態度とは、子弟に偉大 な感化を与へたことはいふまでもない。  天保の時代には、屡々饑饉があつたが、初年の饑饉には、時の東町奉 行矢部駿河守の措置宜しきを得、救済も施されて事なきを得た。然るに その六、七年の饑饉は一層甚だしく、餓孚道に横はるに拘らず、時の東 町奉行跡部山城守頗る頑冥で、窮民を見殺しにして何等救済の手段を講 ぜず、剰へ平八郎の建言を余計なお節介となし、この上の建言は強訴と 認め、処断すると罵り、大阪の富豪町人もまた奉行の鼻息を窺ひ、平八 郎の建言に同情を寄せてゐたものまで、救済わ拒むに至つたので、平八 郎焦心禁ぜず、まづ蔵書を売つて窮民に施し、更に救済策を画策中、奉 行はなほも覚醒せず、不埒にも天子様のお座します京都の地への廻米を 抑制し、これを江戸に積荷して幕府への忠義立する挙に出たので、平八 郎の怒は心頭に発し、遂に門弟同志に打あけて、弔民唱義の挙となつた ものである。  「天より被下候 村々小前のものに至迄へ」といふ平八郎の檄文を見 ると、その挙の趣旨はよく判る。まづ諸役人の没義道を指摘し、「天子 は足利氏以来別而御隠居同様」と喝破し、京都への廻米の世話を致さゞ るを責め、富豪町人の贅沢を攻撃し、已むなく唱義の大旆揚ぐるも、一 揆蜂起之企と異なる所以を明かにし、「都て中興 神武帝御政道之通、 寛仁大度の取扱に致し遣はし、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改め、質素 に立戻り、四海万民いつ迄も 天恩を難有存し、父母妻子を被養、生前 の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を顔前に見せ遣はし、堯舜 天照皇太神 之時代に復しかたく共、中興の気運に恢復とて立戻り申すべく候」云々 と述べて居る。堯舜と天照大紳とを混同して居ることは、誠に遺憾であ るが、孔孟のみで鍛へて来た平八郎しては、堯舜を至上と考へたのも無 理はなからう。それに平八郎は、皇室尊崇の念の強かつたに拘らず、後 世勤王志士の考へた王政復古の思想はまだ持ち合はさず、幕府役人の不 埒と町人富豪の無情とにのみ、無上の義憤を感じた訳である。














矢部駿河守
は、西町奉
行、
天保4.7〜
7.9在職
 


大塩檄文


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