三、大塩の乱
今日でも、米不足の声があると、人々は無闇に不安がるが、江戸時代
においては、今日のやうな輸送機関なく、社会的施設もなく、しかも役
人が、勝手な専制をやつたものだから、少しの米不足は、直に饑饉の声
となり、各地で忽ち米騒動を惹起した。天保八年の大塩の乱は、この米
饑饉が動機となつたものではあるが、たゞの米騒動とはその性質を異に
し、しかも江戸幕府の時代中、大阪における唯一の大事件であつたので、
ここに一ト通り述べることとする。
【大塩平八郎】 大塩平八郎は.東町奉行に属する天満組与力の家に
生れ、幼にして父を失ひ、祖父の手に掬育され、早く家職を継いで与
力となり、奉行高井山城守に信任せられ、着々治績を挙げた。かの豊
田貢といふ妖女を教主とする切支丹宗門の一党を検索糾弾して、妖教
の庶民を毒する害を除き、また他の恐れて看過し来りし奸吏,西組与
力弓削新左衛門の非行を糾弾し、その党与を厳科に処して、役所向を
粛正した。或は僧侶の破戒汚行を摘発し、僧風為めに一変せる如き、
全く平八郎の決死的奉公の結果に外ならぬ。
平八郎は、少時より孔孟の教を奉じ、非常の勉強家で、その自ら奉
ずる極めて薄く、俸禄の大部分は、聖賢の書物購入の資に充てられた。
初め師に就いで学んだが、当時の学者の多くが訓詁詞章の末に奔るに
あ き
慊焉たらず、刻苦励精、呂坤の呻吟語を読んで、その淵源の王陽明よ
り到れるを知り、かの中江藤樹,熊沢蕃山の学問事業に憧憬し、これ
より王氏の学に進んだ。実に平八郎の気魄に、ピツタリ合つた訳であ
らう。
平八郎はまた武術にも秀れてゐた。いはゆる文武両道に達してゐた
ので、庁中の子弟で教を乞ふもの多く、為めに公務の余暇にこれを教
(3)
授した。塾名を洗心洞と称したが、その評判の高まるに伴れ、その名
を慕ひて入門するもの多く、非常に繁昌した。而してたヾに家塾のみ
ならず、各地にも招かれて講義した。頼山陽や斎藤拙堂、猪飼敬所、
篠崎小竹など、当時の有名なる学者は、皆平八郎の交友であつた。そ
の学に対する信念厚く、洗心洞剳記の刻成るや、これを富士山の石室
に蔵め、また伊勢の宮崎、林崎両文庫に奉納した(この奉納について
は、初め同書を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔いて、大神に奉告せんとしたが、
足代弘訓の勧めにより、神宮文庫に奉納したものである)
(3) 洗心洞 天満大塩の宅。
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