Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.11.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩の乱」

その3

久保田辰彦 大阪毎日新聞社 1940

『大阪郷土史』所収

◇禁転載◇

一二 大塩の乱(3)管理人註



大塩の乱

















大塩平八郎
















平八郎の学
問

















洗心洞

三、大塩の乱  今日でも、米不足の声があると、人々は無闇に不安がるが、江戸時代 においては、今日のやうな輸送機関なく、社会的施設もなく、しかも役 人が、勝手な専制をやつたものだから、少しの米不足は、直に饑饉の声 となり、各地で忽ち米騒動を惹起した。天保八年の大塩の乱は、この米 饑饉が動機となつたものではあるが、たゞの米騒動とはその性質を異に し、しかも江戸幕府の時代中、大阪における唯一の大事件であつたので、 ここに一ト通り述べることとする。  【大塩平八郎】 大塩平八郎は.東町奉行に属する天満組与力の家に  生れ、幼にして父を失ひ、祖父の手に掬育され、早く家職を継いで与  力となり、奉行高井山城守に信任せられ、着々治績を挙げた。かの豊  田貢といふ妖女を教主とする切支丹宗門の一党を検索糾弾して、妖教  の庶民を毒する害を除き、また他の恐れて看過し来りし奸吏,西組与  力弓削新左衛門の非行を糾弾し、その党与を厳科に処して、役所向を  粛正した。或は僧侶の破戒汚行を摘発し、僧風為めに一変せる如き、  全く平八郎の決死的奉公の結果に外ならぬ。   平八郎は、少時より孔孟の教を奉じ、非常の勉強家で、その自ら奉  ずる極めて薄く、俸禄の大部分は、聖賢の書物購入の資に充てられた。  初め師に就いで学んだが、当時の学者の多くが訓詁詞章の末に奔るに   あ き  慊焉たらず、刻苦励精、呂坤の呻吟語を読んで、その淵源の王陽明よ  り到れるを知り、かの中江藤樹,熊沢蕃山の学問事業に憧憬し、これ  より王氏の学に進んだ。実に平八郎の気魄に、ピツタリ合つた訳であ  らう。   平八郎はまた武術にも秀れてゐた。いはゆる文武両道に達してゐた  ので、庁中の子弟で教を乞ふもの多く、為めに公務の余暇にこれを教           (3)  授した。塾名を洗心洞と称したが、その評判の高まるに伴れ、その名  を慕ひて入門するもの多く、非常に繁昌した。而してたヾに家塾のみ  ならず、各地にも招かれて講義した。頼山陽や斎藤拙堂、猪飼敬所、  篠崎小竹など、当時の有名なる学者は、皆平八郎の交友であつた。そ  の学に対する信念厚く、洗心洞剳記の刻成るや、これを富士山の石室  に蔵め、また伊勢の宮崎、林崎両文庫に奉納した(この奉納について  は、初め同書を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔いて、大神に奉告せんとしたが、  足代弘訓の勧めにより、神宮文庫に奉納したものである)


(3) 洗心洞 天満大塩の宅。
   
 


石崎東国『大塩平八郎伝』 その59


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