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矢部駿河守、初の名は彦五郎、世禄五百石、賜邸は番町にあり、
予未だ其生死の年月を詳にせされ共、旧参政三上侯遠藤但馬守胤統は、寛政
五丑歳の出生にて、存在なれば本年九十一歳の人なるが、曾て矢部は我より
少き事五六歳なり、と語られたる一話に就て考ふれば、矢部若し存在なれば
本年八十六七歳にして、今を距る四十二年前、受刑の天保十三寅歳には其年
四十四五歳にして、其生は寛政の極末にあるべき歟、
性豁達にして極めて明敏なり、
勘定奉行川路左衛門尉、曾て水戸藩藤田東湖が当時の人物を問ひたるに、答
へて、子は未だ矢部駿河守を知らさるか、此人智謀余り有りて、断決流るゝ
寇莱?
が如し、若し韓淮陰にあらざれば、即ち冠莱公の流なり、と評せしかば、藤
田大に喜び、介を川路に頼みて矢部に面し、大に其人と為りに服せし事は、
藤田が矢部の罪を得て籍を除せられたるを傷みて賦したる詩の序に見へたり、
壮年にして番騎士となる、時に番騎士の風たる、故者の新者を凌き使役する事婢
僕よりも甚しく、殆んど言語に絶したる振舞多かり、
鋤雲云、此風習幕末に至りても猶ほ存せしが、最後軍制を革め、持筒組を編
し、粗ぼ洋式に傚ひし日に至り、始めて脱然として一洗せり、蓋し故輩の老
悖したるは罷められ、後生新進の坐作に 堪へたる者のみ使用せられしに因
れり、
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豁達
(かったつ)
闊達
度量が広く、
小事にこだわ
らないさま
老悖
(ろうはい)
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