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嘗て直夜に中り寒気甚しかりしかば、老輩矢部に頤指し、熱粥を作らしむ、粥は
衆儕輩が晩餉の 余を行厨より集め混合して作り、熱に乗して椀に盛り、恭しく
之を進むる事にて、其賤陋なる言ふ計りなきも、故輩坐なから傲然として受て、
恠まず、稍々意の如くならざれば、人前に罵責を加ふ、其辱殆んど堪ゆべからず、
矢部心窃かに之を恚り、故さらに灯盞を傾け、油を粥中に注き、撹せ知らざるを
為して之を供せしかば、故輩 餐なる舌を鼓して、矢部か調理を試んと戯れなか
ら箸を執り、或は喫し、或は未た喫せすして、嘔気を発する者ありしかば、あは
たゝしく矢部氏を召して其故を詰るに、矢部自若として、百事拙劣にして衆儕に
及はさるを謝し、百口侮辱を受け、黙して争はず、明朝退直に際し、家に帰るに
及はず、先つ番頭某氏の邸に至りて謁を請ひて、詳に昨夜の始末を演して隠さず、
終りて徐に云ふ、小臣既に隊風の好からざるを訴へて、故宿儕輩を誹る、其罪辞
すへからず、敢て請ふ、今日より職を辞して再ひ仕へずと、番頭其強ゆへからざ
るを知りて止めず、即ち其請を免し、又故老の頑愚なる数人を罷め斥けて隊風を
改正し、後数日ならず、更に上請し、矢部の勁直を称して徒士頭に吹挙せり、是
れ矢部の人に知らるゝの始にして、旗下儕輩一時皆敬憚の意を生せり、
是れ予か友山口泉処の老親林内蔵頭が平生泉処に話する所にして、矢部が纔
に頭を出せは、既に凡より高き数等なるを知るに足る、
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余
(さんよ)
行厨
(こうちゅう)
弁当
賤陋
(せんろう)
卑しくて品が
ないこと
恠(あやし)まず
稍々
(やや)
恚(いか)り
撹(ま)せ
徐
(おもむろ)
誹(そし)る
勁直
強く正しいこと
山口泉処
(1830-1895)
直毅、
幕末の幕臣、
神奈川奉行など
歴任
数等
数段
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