Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.6.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


「矢部駿州と鳥居甲斐」
 その5
栗本鋤雲 (1822−1897)

『匏庵遺稿』所収 裳華書房 1900

◇禁転載◇

 管理人註
  

堺浦在任中、一首の古歌を誦して、甲乙兄弟間に久敷結んで解けさりし難訴を氷 釈せしめたる美談あり、固より奉して吏職の典型と為す可からすど雖も、氏か機 変に通する才畧を見るに足れり、   国学者北村季文、曾て此訴の顛末を詳記し、堺の浦風と題せし一書あら、世   間好事の家には今も猶ほ蔵せる人あるへし、予か壮時一閲して記する所を胸   臆に探て此に記すに、堺浦某社の祠官甲某なる者あり、田畑山林等も所有し、   可なり読書もあり、粗ほ道理も弁へ居る者なるが、元来養子にて、養父死し   たる後、家を嗣て年ありしが、養父存生中に甲に秘したる一男児乙某ありし   が、其母は卑賤の者なれば、深く羞ち厭ひて、唯陰々裏に物など与へ、別家   に養ひ置たるに、甲も之を悟り居れば、平生養父の己れに明かさすして、窃   に貨財を与ふるを心に快からず思ひ居たり、然るに養父死後数年の後、乙の   母も死して乙の身因る所無く、漸く貧困に迫るを以て甲の家に至り、故を述   へて救恤の事を請ひしに、甲は之を拒み、先養父は唯此甲の一子あるのみ、   他に児子の有る無しと謝絶せしに起原し、互に言募りて、終に公訴に及びた   るに、双方腰押も出来て久敷決する能はず、先勤の奉行も頗る持余し、唯年   月を経て其自ら疲るゝを待つの姿なりき、矢部に至りて因循に付する能はす、   手を下して調理するに、其族籍等証文の類を始め写して一も乙の証左とす可   き者無し、去ればとて、窃に故老の甲の養父を識りたる者を挙けて、乙の面   貌様子を観せしむれば、其人に瓜二ツなりと云ひ、動作を問へば其人に其儘   なりと云ふは、二人三人の言にあらず、殆んど当惑を極めたれど、去り迚何   時迄も抛棄し置く可きにあらされば、静思の末、原被を呼出して、其方共兄   弟なり、否兄弟にあらすとの争は是迄幾回尋問に及べども、終に其要領を得   す、然る上は愈々乙は全く無証故、言掛りの筋に当れば、近日相当の所刑宣   告するにてあるべしと言聞け、更に甲に向ひ、唯今乙に申聞けたる如くなれ   ば、其方にも左様心得よと申聞ければ、甲は得色面に露はれ、領承して将に   法廷を退んとするに臨み、暫時扣へよと呼ひ戻し、殊に詞気を温にして奉行   の申聞けは既に終りたれば、是より一場の物語りに及ばん、是は恋歌なれと   古歌に「無きなそと人には言てありぬへし心の問はゝ何と答へん」と云へる   あり、甲は学問を好むと聞けは能く解し得たるべし、男子たる者一旦人に対   し口より出して、無しと云ひたる以上は、事の有無に係はらす、枉けても貰   ぬくものなるが、若し人の見ぬ己か心の問ふあらば、果して如何答ふ可きや   との意なり、我は兄弟も持たぬ身なるか、事無き日には敢て意とせされど、   事ある日に当りては、責て兄弟にても有りたらんには、何と歟語り合ふ事も   あるべきにと思はざるなし、故に他人の兄弟に富む者あるを聞く時は、常に   羨ましく思はさる日なし、甲乙共に能く己か心に問ひて見よや、と有りしか   ば、甲は聞畢り良久しく黙然たりしが、忽ち悟る所ありしや、愀然として涕   を流し、暫く猶予を給はりたし、とて廷を下りしが、軅て甲乙打揃ふて廷に   上り、愈和睦して解訴を請ひ奉る旨を述へ、数年の難訟一朝にして氷釈し、   棣蕚々として柴荊再ひ栄ふるに至れり、








北村季文
( 〜1850)




























































枉(ま)けて

















愀然
(しゅうぜん)
厳粛な、重々しい


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