Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.6

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大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その10

前 田 愛 子

1983.10『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 男たちが発っで行って一刻ほど経った頃、見張りに残った百姓からおのぶの所へ注進があった。報らせでは役人の北村左兵衛がつい先刻、庄屋の家へ這入って行くのを見たという。
「足軽二人と五、六名の人足が一緒だした。あそこの作男話じゃ、村の者が大坂から戻ってきたら、差し押えて陣屋へしょっ引いて行くそうだす」
 痩せ細って目だけが光っている仲右衛門はおどおどした態度でそう言った。
「才治郎たちが役人の手になるか、ならないかは今日の勝負決第で決まることだす。わてらはうろたえたりせんと、腰を落着けて吉報を待ちましょう」
 おのぶの胆をすえた態度に目の前の仲右衛門と長左衛門は老いた眼を伏せた。きっばり言い切ったおのぶに不安が無かったといえば嘘になる。
〈万が一、最悪の事態が生じたとしても、見苦しくうろたえるまい>
 おのぶはそう心に言い聞かせて男たちの首尾を祈っていたのだった。
 あくる朝、おのぶは孫娘のハルの泣き声で目を醒した。女だけで不用心なので昨夜は母屋でまどろんだ。大坂へ出て行った息子たちからは昼すぎになっても何ひとつ報らせがなかったので、おのぶは次第に気持に焦りを覚えていた。
 村は静まりかえって不気味ですらあった。長い一日がようやく暮れかけた頃、村の入口の坂で見張り役をしていた仲右衛門が血相を変えて駆けこんできた。
「お家はん、たったいま穂谷の利右衛門が山伝いに大坂から戻ってきて教えてくれたんだすけど、大塩方は敗けてしもうたそうだす」
 村を出て行った男たちは昨日の夕方、守口宿の孝右衛門宅へ着き、才治郎はそこで孝右衛門の倅から大塩勢の敗走を耳打ちされたのであった。しかし今更そんなことを村の者に告げられず、とりあえず鉄砲や竹槍を白井家へ預けその足で淀川沿いの沢上江(かすがえ)村にある渡し場まで行った。けれどもそこもお上の手が廻って渡船が差し止めになっていたので、やむなく毛馬村まで引き返し、渡し守に、「地頭屋敷の火消し人足だ」と、偽って船を出させ、四つ時(午後十時)ようやく長柄村へ渡ったのだった。
「幸い北野村の不動寺の住職が利右衛門の身寄りの者だしたので、昨夜はみな不動寺に泊ったそうだす」
 疲労と空腹で暗がりの畑に坐りこんでいた男たちの宿が決まったところで、才治郎は初めて事の真相を打ち明けた。
「今夜の宿とめしは利右衛門に金を預けて頼んださかい、心配せんとゆっくり休んで明日みな村へ帰(い)んで下さい。あんさんらは才治郎に騙されてここまで連れてこられたといえば咎めを受けずにすみますさかい」
 才治郎はそう言うと新兵衛ひとりを連れて一先ず大和を指して落ちて行ったのである。
「そうだしたか、大塩さまは才治郎たちが駆けつけるまでに敗れておしまいになりましたのか」
 おのぶは昨日、晴ればれした顔で村を出て行った若者たちの表情を思い浮かべながら、見張りを務めてくれた百姓たちをそれぞれの家へ帰した。
〈新兵衛はんが案じていはりました通りになってしもうた。それにしても治兵衛は一体どうなったのやら〉
 おのぶは馬小屋で馬が床を蹴る音を遠くに聴きながら、改めて男手のないこの家の現実を思い知らされていた。
 日が落ちてしまうと夜の訪れはすぐだった。おのぶはあまり欲しくもない夕餉をとり終えると、目の前に坐った歌と八重に細ごました注意を与えた。
「もしもだっせ。役人に取り調ぺられるような事態が生じても、あんさんらは何も知らんといいなはれや。咎を受けるのはこの私(わてい)ひとりで充分だす」
 おのぶは心配そうな眼をしている八重を安心させるようにして言った。
「お姑はんだけに責任きせられしまへん。才治郎さんたちが志を立てはりましたのは、まっとうなことやおまへんか」
歌はおのぶに一途な眸を向けて言った。春日村の富農の家で何不自由なく育てられた歌は、打算というものを持たない女だった。そんな嫁をおのぶは実の娘のように愛しく思う。
「あんさんのお気持は本当(ほんと)に嬉しおます。けどそればかりはなりまへん。治兵衛も消息が知れないこの家で、あんさんまでが咎を受けたらハルの面倒は誰がみるのだす。家の切り廻しも誰がやれます。歌さんしか居りまへんな。そうだすやろ。この際やから八重も聞いといておくれやす。私ら百姓の暮らしも立ち行かんほど苦しんでいるこんな世の中、いつまでも続くとは思えまへん。続く訳がおまへん。自分らの作った米の御飯がまともに口に入らへん。おまけにひどい時は借銀までせないかん。やっぱり何処か狂うとります。百姓が普通の暮しがでけな嘘だすな。この度のようにそんな世の中にしようと思って決起なさった大塩さまの企ても徒に終ったけれど、必ず第二、第三の大塩さまが現れますやろ。そしてきっといつかは私ら百姓がもう少し楽に暮せる世の中が来ること間違いおまへん。それまでは歌さんも八重も長生きせなあきまへんで。長生きして世の中の変わりようを見守ることだす。ハルが大きうなりましたら村のことを聞きますやろ。その時には才治郎や私らのこともきちんと話しておくれやす。頼みましたで」
歌も八重も何時にないおのぶの強い視線と口調に圧倒されて身を硬くしてていた。
「この騒ぎでハルの癇も大分たかぷっているようだすさかい、はよ寝かしなはれや」
 おのぶが嫁を促して座を立とうとした時、表の戸が開き、思いがけなく憔悴しきった治兵衛がふらつくようにして入ってきた。
「あんたはん」
 歌はおのぶが息子へ声をかけるよりも早く土間へ降り立って夫を迎えた。仄暗い明りの下で治兵衛の頬から顎にかけて髪が伸び、頭髪も埃で白っぽく乾いてしまっている。
 粟粥を炊く匂いが漂う炉端で少量の酒を口に含んだ治兵衛は、ようやく人心地がついたのか頬に生気が蘇ってきた。
「守口の伯父さんと大塩さまの許へ参りましたら、先生から直々挙兵の件を打ち明けられ加盟を迫られました。その時、初めて伯父さんや才治郎が名を連らねているのを知ったんだす。わいは先生の気迫に押されてつい、承知しましたが、隙をみて逃げ掃ろうと機を窺うておりました。わいが一味に加わったら親や親戚に迷惑かけた上に、長い間つづいたこの深尾の家に疵がつきますやろ。けど帰ろうとした矢先に事件に巻きこまれたのだす」
 治兵衛が気を揉むうちに門人の平山助次郎が奉行の許へ密訴して出るという事態が生じてしまったのである。
 その夜たまたま宿直当番の与力であった瀬田済之助が、命からがら奉行所からはだしで洗心洞へ逃げ帰り、大塩勢の計画が洩れてしまったことを告げたので平八郎は急遽、同志を呼び寄せ挙兵の刻を早めたのだ。
「密訴人は扶持米を手離すまいとした同心たちだったそうだす」
 瞼の下に青黒い隈をこしらえた治兵衛は沈痛な声でそういう。息子から事の顛末を知らされたおのぶの胸裏に、裏切り者への怒りがふつふつ煮え立ってくる。
〈女のこの私(わてい)さえ、咎を承知で才治郎や村の衆を送り出したというのに、武士のくせになんと恥知らずな〉 大塩勢が姦吏や利権漁りの商人へ一矢も報いることなく敗走しなければならなかった無念を思えば、胃がキリキリ絞り上げられるようだ。
「今から考えると大塩さまがわいを呼び寄せはりましたのは、わいが村にいては才治郎が思うように采配が振えんさかい、前もって天満へ引きとめはりましたのですやろ」
 治兵衛は挙兵にあたって平八郎から刀や槍をすすめられたが、武芸の心得がないと言って断り、代りに鉄砲玉を入れた革文庫を持ち運ぶ役目を引き受けた。しかしそれも難波橋附近で他の者へ渡してしまい、わずかな隙をみて逃げ帰ってきたのであった。あらかた話し終えた治兵衛は、これから村役人を訪ねて今後のことを相談すると言って炉端を離れた。おのぶは息子の肚を決めた態度にもう何も言わなかった。それまで黙って夫の話を聞いていた歌は治兵衛の衣服を出してきて着替えを手伝うと、門口まで送り出して行った。
 通いの八重も帰ってしまい、歌がハルを寝かせつけに奥の部屋へ引きこもってしばらくした頃、表の戸を密かに叩く音がした。


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