Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.3

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大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その9

前 田 愛 子

1983.10『文化評論』より転載


◇禁転載◇

〈この息子は、何時の間にこんなもの揃えていたのだろうか〉平八郎の許で武芸を始めたとは聞いていたが、二本差しの我が子を眺めるのは今朝が初めてだ。おのぶが息子の凛々しい姿に目を奪われている間にも、才治郎は駆けつけてきた若者たちになにかと指図している。人の出入りが慌しくなったかと思うと、谷ひとつ隔てた向かいで早鐘が鳴り出した。
〈大塩さまはいよいよ兵を挙げられたのだ〉
 おのぶは覚悟していたもののいざそれが現実に迫ってみると、心はやはり複雑だった。向かいの来雲寺の鐘に呼応するかのように治兵衛屋敷の軒先にある半鐘が打ち鳴らされる。時ならぬ鐘の音に狩り出された村人たちは治兵衛屋敷の庭や坂道まで溢れ出るように集まってきた。おのぶが裏からそっと表へ廻り人々の背後へ立つと、野良から駆けつけてきた百姓たちは互いに額を寄せてささやき合っている。庭の中程では腰に長協差を差し込んだ旅支度の若者たち数名が才治郎を囲んで話しこんでいた。
「なんだすねん?」
「なんでも大坂表で異変が起きたとか言うことだっせ」
「源六の触れこみじゃ、大塩さまのところへ加勢に行くとかいう話だしたで」
「大塩さまって、あの先日、施行されたお方だすか」
 男も女も老いも若きも早鐘に集まってきた人の数を前にして少なからず興奮していた。鐘が鳴り止んで小半刻ほど経った頃、向かいの谷から忠右衛門を先頭に七、八名の百姓が急ぎ足でやってきた。誠実な人柄と温厚さで村人たちに人望のある忠右衛門が、旅支度で現れたのを見て百姓たちは互いに顔を見合わせた。大人たちの不安と緊張の入り交った表情をよそに、童たちは柿の木に登ったり、築山の陰に掻き寄せられた雪を丸めて投げ合ったりして燥(はしゃ)ぎ廻っている。才治郎は村人たちの見守るなかで懐から折りたたんだ撤文を取り出すと、若さの溢れる声を張り上げて読み始めた。
「才治郎さん、何よんではりますのや」
「悪徳商人やそれらとつるんで旨い汁すうてる奴らを天に代って討ち、世直しするのや言うてはりまっせ」
「仲々、難しうて判らんわ」
 おのぶのすぐ前で中年の女房たちがささやいている。平八郎の手になる撤文は調子が高く言いまわしが難しいので、居並ぶ百姓たちには理解しにくかったのである。才治郎は五尺に余る撤文をたたんで再び懐中にしまいこむと、村人たちを見渡して言った。
「いま読みあげた通り、大塩さまは飢饉でみんなが難儀しているのは天災のせいだけやのうて、大切な御政道を預る役人たちの無能がその原因やと言うてはるのや。こんな禄盗人の役人や、売り惜しみして物の値を釣り上げている商人共を誅伐して、奴らの貯えた金銀をみなに分け与えてやる言うてはるのやで。かねてから大坂で異変が起きたら火の手をあげて合図する手筈になっていた所、今朝から大坂の方に火の手が上がっているんや。これはきっと大塩勢の勝利に間違いない。あんさん等もこの才治郎と共に、ぜひ大坂へ駆けつけ大塩方に加勢して貰いたいのや」
 才治郎がそう言うなり百名余りの百姓たちの間から、思わずどよめきの声が湧きあがる。
「大塩さま言うたら、昔から大坂三郷にその名を知られるお方や。その方が打ちこわしの頭になって下さるとは願ってもないこっじや。わいは加勢に行くぞ!!」
「わいかてや。行ってこの手で買い占めさらしてけつかる奴らの店、打ちこわしてやらいでか!!」
 諦めに馴れてきた百姓たちの顔にみるみる生気が甦ってくる。しかしどの顔も長い間、粗食と労働に耐えてきたせいか同じように目がくぼみ頬骨が飛び出している。しばらく周りの者たちと相談していた男たちは鍬を手にしたまま、次つぎ参加を申し出た。土の臭いがしみこみ日頃は感情を表に出すことの少い百姓たちも、平八郎の挙兵に望みをつないで一歩、前へ踏み出そうとしていたのである。
 若者たちはその間にも納屋から鉄砲や竹槍を庭先へ運び出していた。それらのなかには身を守る武器だけでなく、夜道を照らす高張提燈や小さな提燈までいくつか準備されている。おのぶは先日まて素麺が干されていた同じ場所で、着々とすすめられて行く挙兵の支度を眺めているうちに、門出に祝盃を用意しなければと思ってそっと踵をかえした。すろとすぐ西の坂道をこちらへ登ってくる男の姿が目にはいる。
「おのぶさんやないか。あんさん居はりましたのか」
 薄くなった自髪頭を振り立ててやってきたのは庄屋の治五平だった。そしてその後に年寄役の甚兵衛と卯兵衛が、おのぶを詰問するような目つきで立っている。「この二人の話では才治郎が勝手に村の者を集めて大坂表 へ出向くとか言うことだすが、あんさんそないなこと、本気でさせはるつもりやおまへんやろな」 早朝から所用で隣村まで出掛けていた庄屋は、騒ぎをききつけた両名の知らせで急いで村へ立ち帰ったのである。治五平はおのぶに道をあけさせ、才治郎の近くへ歩み寄った。
「才治郎、おまはん等はこないな幟までこさえて、徒党まがいなことしでかしたら唯では済みまへんで。はよ解散しなはれ」
 治五平は顔色を変えて百姓たちを見廻した。
「おまはん等もはよ帰(い)なはれ。こないな無謀な企てに加わって、お上の咎を受けたら女子供はどないなりますのや」
 領主から村の治安を預っていくらかの禄を食む治五平は、己れも不行届の貴めを受けるので必死になって押しとどめた。しかし血気にはやる若者たちは庄屋の言葉に耳を貸そうともしないでせせら嗤っている。けれどもそのうち庄屋の叱責を受けて幾人かの百姓が身を退き始めたのを知ると、彼等は殺気立った表情で庄屋を取り囲んだ。忠右衛門はそんな若者たちを制して庄屋の前へ出た。
「この度の大塩ざまの挙兵は決して無謀なものやおまへん。庄屋さんも知っての通り、あの方は元役人としても学者としても立派な方やおまへんか。そないなおひとがなんで徒党まがいなことしはります。乱れた御政道をここで大塩さま共々改めな、わてらの暮しは成り立ちまへん。こうなったらわてらかて後へは退けまへんな」 忠右衛門の口調に押された治五平たちは返す言葉もなく、眼ばかり怒らせてその場を立ち去った。
 やがて百姓たちはおのぶの振舞い酒やぼた餅で腹ごしらえを済ませた頃には余裕が出来たらしく、互いに軽口さえ叩き合っていた。彼らはこれから大坂まで十里の道を駆けるのだ。七十戸の家から四十二名もの男たちが出て行くのである。
 才治郎を先頭に整然と列を組んだ百姓たちは「尊延寺村」の幟をなびかせながら坂道を駆け降り、穂谷川に沿った村の一本道を山裾の方へ向かって行く。列の殿(しんがり)を半天姿の新兵衛が駆けていた。おのぶは村の女子供の背後からそれを見送っていた。山も谷も白一色の雪景色のなかで男たちの姿が次第に小さくなり、やがて黒い点になっておのぶの視界から消えた。


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