Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.13

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大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その12

前 田 愛 子

1983.10『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 大塩敗走の報らせがもたらされた翌日は朝から霙(みぞれ)が降っていた。朝餉がすんだころになって陽が射しこむと、先日来の雪が溶け始めた。その泥濘の中を甚兵衛がおのぶを訪ねてやってきた。
「治兵衛さんのことやが、昨夜のうちに船橋陣屋へ出かけて行って、一味に加わった経緯を申し立て、その足で大坂町奉行所へ自訴して出はったそうやで」
 治兵衛には村役人がつき添っていったという。
「治兵衛さんは自訴した方が少しでも罪が軽うなるやろいうてなあ。多分、仮口書を取られた上で村預けということになりますやろ」
 才治郎と共に村を出て行った百姓もほとんど帰村し、今では村役人の家へ集められ陣屋よりの沙汰が降りるのを待っているのだった。甚兵衛は炉端の縁でキセルの雁首を叩くと、意味あり気な眼をおのぶへ向けた。
「陣屋の役人さまも今度の騒動で頭を痛めていはりますわ。お上の方でも大塩さまの挙兵を重くみて残党狩りの詮議もことの外きびしおますさかい、これから先この村もえらいことだっせ」
 事件に関係した百姓たちが咎を受けてしまうような事態になれば、村としては領主への年貢も上納しかねる。そこで事が不発に終った今は、双方の利益を考えて、この度の参加はみな才治郎に騙されて村を出たということにしたいので、それを承知してくれないかとの相談であった。
「けどなあ、忠はんや小左がどないしてもそれを承知しまへんのや。しかし、お家はんが承知してくれはりましたら、頑固なあの二人も首を縦にしますやろ。ここはひとつ村の衆を助ける思うて、ええ返事を聞かせておくんなはれ」
 陣屋の役人や庄屋の治五平から意を含まされて使いにきた甚兵衛は、おのぶの前に自髪頭を深々とさげた。
「それにな、才治郎はんを人別帳から除外してしもたら、この家だけは助かりまっせ」
 甚兵衛はおのぶから眼を逸らしてそういう。
〈そんな虫のええ話がおますかいな。それでは余りにも才治郎が不憫やおまへんか!!〉
 危うく喉元まで出かけた言葉を抑えたおのぶの瞼の裏ヘふと、忠右衛門の女房の病み疲れた姿が浮かび上がる。「そりや、才治郎はんひとうに罪を被せるのは酷かも知れまへん。けどこれも人助けと家を守るためだす。その代りに治兵衛さん方はなるだけ軽い沙汰で済みますよう代官所の役人とも相談さして貰いますわ。そんな訳だすさかい、ひとつ先前(さいぜん)の件、よろしうお頼みいたしましたで」
 おのぶの母と遠い縁つづきに当る甚兵衛は念を押すと、白髪頭へ手拭を被って帰って行った。
 事件から一両日、小さな村は役人の出入りでなんとなくざわついていた。人々は家の中で息を殺して取り調ぺの終るのをじっと待っていた。しかし忠右衛門など重だった百姓が陣屋へ送られたあとは騒ぎも一応治まり、村の暮しも平静に戻った。そんなある日、おのぶの許へ守口のたつから報らせが届いた。文面に依れば夫の孝右衛門と杉山三平が二十日夜、伏見奉行所の手の者に捕われたという。大塩父子と才治郎たちはまだ逃げ続けているとのことだ。その消息を前におのぶは密かに胸を撫でおろしたが、たつの胸裡を察すると慰めるすべもなかった。あの衛生条件の劣悪な天満の牢へ送られてしまえば、孝右衛門は二度と生きて陽の目を見ることはあるまい。あそこでは殆んどの罪人が吟味中に病死するというのだ。
〈天満の牢といえば、治兵衛はどうなっているのやら〉
 町奉行所へ自訴して出た治兵衛は思いの外、吟味が長引き未だに帰宅が赦されていない。
〈才治郎がもし捕われたとしでもそれは仕方おまへん。あれは自分で選んだ道を進んで行ったのやさかい。それに引きかえ治兵衛は総領として育でられたばかりに、この期に及んでも家名に疵をつけまいとしている〉
 治兵衛の身の上を考えると今更ながら不憫で胸が塞がる思いがする。おのぶはたつからの便りを読み返しながら五年ほど前の春、たつと連れ立って道頓堀まで人形浄瑠璃を観に行ったころの彼女のふくよかな顔を脳裡へ浮かべていた。
 孝右衛門と三平が捕われた翌二十一日の夕方、大坂城代は急遽、命令を下して川口附近を出入りする船舶に取調べを加える一方、夜間の往来まで一切禁止してしまった。そうした幕府の厳しい措置にもかかわらず、平八郎たちの消息ばぷっつり絶ち切れたきりだ。
 巷では大塩勢を取り鎮めるため指揮にあたった東西の両奉行が、状況への的確な判断も下せず、あまつさえ銃撃戦の砲声に驚いて狂奔する馬から揃って落馬した噂で持ちきりだった。まだ焼け燻(くすぶ)る町の目抜き通りには早ばや、

 と、書いた落首も見られ両奉行は庶民の物嗤いの種になつていた。


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