Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.12

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大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その3

前 田 愛 子

1983.9『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 それから中一日をおいてまた雨だった。おのぶが起きぬけに雨戸を繰ると穂谷川に沿って東西に延びる田辺街道も、その向こうに見える大和棟の屋根も悉く雨に濡れて黒黒と目に映った。こう長雨の日が続くとおのぶの気持もつい滅入りがちになる。
〈天保と改められてから、ちょっとも良えことあらしまへんがな〉
 彼女は腹立たじそうにひとりごちるとやがて母屋へ渡った。
 今年は年頭から荒天気味であっだ。人々の不安は的中して菜種梅雨の頃から降り出した雨は畿内だけに留まらず、全国各地て降り続いていた。冷害で田畠の作物が根から腐り始めているなかで雑草だけが伸び展がっているのは不気味ですらあった。
 おのぶが母屋の裏木戸をくぐると、軒下に雨に濡れた蓑が吊されている。
「早うからどこぞへお出かけやったのか」
 土間で足を濯いでいる治兵衛へ声をかけた。
「昨夜(ゆんべ)、吟次の奴が女房子供を連れて村を出て行きよりましたのや」
「まあ、ひとりでも欠落(かけおち)するの難しおますのに、女房子供まで連れて行きよりましたのか」
 暗い話におのぶはぞくりとする寒さを覚えて思わず衿元をかき合わせた。
「昨夜のあの雨じゃ誰も気がつかなんだらしい」
 早朝から捜索に狩り出された治兵衛は重たそうな瞼をしばたきながら朝餉の席につくと、吟次の夜逃げについて話し出す。近所の者の噂では厳しい借金の取立てから村を捨てたという。もともと一石五斗余りの貧農であった吟次は若い頃から病気がちで苛酷な労働に堪えられない身体だった。従って力仕事は女房の肩にかかっていたが、その女房も二人目の児を産んでから体調を崩し、一家の暮しはますます追いつめられていったのである。
「先の与作と同じように吟次たちもまた、無宿人になりますのやろな」
 おのぶは吟次の妻の下ぶくれの顔を脳裡へ浮かべて言った。
「いずれそんなとこですやろ。治五平さんも刈入れを前にこれ以上みなを捜索に狩り出されへん、いうてはりましたさかい」
 治兵衛はもうその件に触れたくない気持だった。おのぶは息子の話ぶりから推して、この家と縁続きになる庄屋の治五平の渋い顔が目に見えるようであった。村では欠落人が出ると庄屋はすぐに支配役所の船橋村陣屋へ届出さなければならない。それに対して陣屋からは三十日という期限を切って逃亡者を捜し出すよう命じられるのがきまりだ。けれどもそれは形式だけのことだった。喰うために稼ぎに忙がしい村人を連日の捜索に狩り出すのは何かと不都合だったし、それに逃亡者を捜し出したとしても村としてはかえって後が面倒なので、適当な所で打ち切ってしまうのである。そればかりか欠落した者が他領で罪を犯し、その累が村方へ及ぶのを未然に防ぐために、逃亡者を人別帳から除籍するよう陣屋へ願い出るのが習わしだ。
「吟次も生まれた村を捨てるとはよくせきのことやなあ。どうせ大坂あたりへ流れて行ったのやろけど、今日(きょうび)は町も住みづらいのやで。この間も守口へ寄ったら、三平さんが米の値上りがきつい言うてぼやいてはったわ」
 帰省して朝餉の膳についていた才治郎は、兄の治兵衛の横顔に視線を馳せながら感慨深そうな声で言った。おのぶは才治郎に相槌を打つ一方て、息子が今でも、百姓の味方をして所払いになった三平に尊敬の念をこめて、庄屋時代と同じ扱いて、〃さん〃づけで呼んでいるのを聴いて満足だった。
〈学問を積むということは、こないにも人を変えてしまうものなのやろか〉
 帰ってくる度毎に顔の表情が引締まり、自分の考えというものをしっかり身につけてきた次男を眺めていると、母親として誇らし気な感情がおのぶの胸を突き上げてくる。才治郎は大坂から戻ってくる度に、町や道中で見聞した知識を披露してくれるので、家族の者にとってはそれがまた愉しみでもあった。
 才治郎の今朝の話では大坂市中の質屋は質入れする者だけで、受け出しする者がいないのでほとんど倒産寸前だという。
「それでは守口の白井家も大変ですやろ」
 おのぶは不安そうな眼を次男へ向けた。
「あそこは固い商いやってはりますさかい、大事無いですわ。けどこの不況じや、大分しんどいですやろな」
「この先、どないなりますのやろ」
 小金を近在の百姓に廻しているおのぶは知らず知らず暗い眼になった。
「大坂の町も近ごろひったくりや強盗が増えて、えらい物騒ですわ。それにこの前なんか〈米屋や官商を打毀す〉と書いた紙が、奉行所の門へ貼ってあったんだっせ」
「なに、奉行所の門に貼ったというのか」
 日頃から物に動じない治兵衛もそれには驚き、思わず弟へ問い返したほどだ。
「そうだす。これまでそのような貼り紙は淀屋橋や大江橋の上だけだしたのに」
 それだけでなく江戸堀や京町堀の暗がりでは一合か二合の米を手に入れるため、女房や娘が春をひさぐ姿が目立ってきていた。さすがにその話の時は才治郎も嫂の歌や若い八重を気にして声を潜めた。
「それは町だけのことやおまへん。ついこの間も向かいの小左衛門の末娘が、新町の遊女屋へ売られて行ったばかりだすわ」
 おのぶは請判してやった娘のまだ肩上げもとれていない桃割れ姿を脳裡へ甦らせる。
「その新町ではいま、米の抜け買いをした連中が、毎晩どんちゃん騒ぎしているのだす」
「まあ、この米不足の折に抜け買いして買占めるとはひどおますやないの。そないなあくどい商人をお上(かみ)はなんでお取り締まりにならしまへんのや」
「お上がその手を使うてはりますさかい、強いこと言われしまへん」
「なんだすって!!近在の者が一升、二升の米を大坂へ買い出しに行っても手が後へまわるのに、なんでお上が抜け買いなどしはりますのえ」
 おのぶは納得の行かない顔を才治郎へ向けた。当時、奉行所では大坂市中の有米高を保持するため、米や殻物類を市中より他所へ積み出しすることを制限していた。そのため日々の米を大坂に依存している京都をはじめとした近郊の畑場農村では、忽ちその日の飯米にもこと欠き餓死者の数は日ましに増えていたのだった。
 母親の問いに才治郎はしばらく思案していたが、やがて洗心洞で耳にした話をみなの前で語り始めた。
 この四月、大坂東町奉行に転任してきたのは老中水野忠邦の実弟、跡部良弼(よしただ)であった。着任した跡部の施策は、わずかな米の買出し者さえ牢に入れるほどの厳しい取り締まりをおこないながら、江戸の忠邦から江戸表へ廻米せよの内命を受けると、組違いの与力である西組の内山彦次郎を密かに兵庫へ差し向けて西国筋からの廻米を押さえさせ、江戸へ積み出しさせていたのである。江戸からの廻米令は来春に予定されている十二代将軍家慶の将軍宜下の大礼を迎えるための準備であった。そうした奉行のやり口を真似た在坂の諸藩の役人が商人と結託して蔵米を途中で荷揚げし、売り借しみしていたので食糧事情は更に悪化していた。しかし政界と結託した富商たちは庶民の窮状をよそに、高価な骨董を買い競うなどして豪奢な生活をほしいままにしていた。
「二年前の飢饉の折とはえらい違いだすな。あの時、お奉行さまは江戸への廻米令をきっぱり拒まれましたのに」
 おのぶは思わず話の途中で口を差し挟んだ。彼女が目にした矢部定謙は名奉行としてきこえていたが、九月に勘定奉行として江戸へ栄転し、後任は来春とかで現在のところ新任の跡部良弼が一人で東西の組を支配していた。
「大塩さまは奉行へ再度に渡って、将軍家の御代替りの儀式も大事であるが、このままではいつ百姓一揆がおきるかも知れへん。治安のため政府の米倉を開くようにと進言されましたのだすが、奉行は先生の御意見を悉く無視しているのです」
「なんでだすの。お前の話ではこれまでのお奉行さまは、大塩さまを御自分の役宅に招いて何かと御相談なさったのではおへんか」
「矢部さまと今度の奉行とでは、人問の質が違いますわ。矢部さまは庶民に眼を向けた政事をなされましたが、跡部の奴はおのれの栄達しか念頭にないのだす」
 才治郎は話しているうちに自分の言葉に興奮して頬が紅く上気してきた。そんな弟を一督した治兵衛は村役人らしい顔になった。
「才治郎、お上に対してめったな口きくな」
 兄に窘(たしな)められた才治郎はそれっきり口を噤むとそそくさと飯をかきこみ、やがて坐を立った。おのぶはそんな次男の姿を眼の端に入れながら、いつか才治郎が語ってくれたことを思い出していた。
 その話では町与力は東、西両奉行に分れて属し、それぞれ一ケ月交替で勤務する制度になっていた。これは奉行所内における汚職や賄賂を防ぐという目的もあったが、両組の競争心を煽ることによって執務の効果をあげさせようとする支配者側の狙いも含まれていたのである。そのためお互いの組は対抗意識を燃やして反目し合っていた。跡部はそれを心得ている筈なのに自分の背景を恃(たの)みにして、平八郎や東組の者を無視している。
 おのぷは初孫の忙(せわ)しい泣き声を耳にしながら、平八郎と奉行との間に生じつつある確執になんとなく胸騒ぎを覚えるのだった。
 戸外では今日も本降りになるのか、またひとしきり激しく雨が降り出した。



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