Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.22

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大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その6

前 田 愛 子

1983.10『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 昼もすぎる頃になると冬の弱々しい日差しは幾重もの雲に覆われてしまい、寒気は冷たく頬を刺す。先刻まで立ち働いていた男たちは午後から寒施行に出かけることになつた。山脈の深い襞にあるこの村では昔から冬場ともなれば、狐や狸などの餌が乏しくなるので小豆飯や油揚げを田の畦や杣道へまくのが慣習になっている。厨口から裏庭へ出た忠右衛門は八重から油揚げのはいった竹ざるを受取り、「今年はこれも狐や狸より先に、人間さまの口にはいってしまいそうだすな」と、珍しく冗談を言いながら近くに立っているおのぶを眩しそうな眼で眺めた。
「ほんまにそうかも知れまへんなあ。ところでお澄はんの塩梅はどないだすか」
「へえ、おおきに。ま、相変らずだす」
 嬶(かかあ)は食養生だけが唯一の薬だすと応えた忠右衛門はほんのわずか眉を曇らせたが、やがて治兵衛を先に立て、猪よけの板囲いを巡らせた裏山のくぬぎ林のなかへ入って行った。
 村の者から忠はんと親しく呼ばれている自作農の忠右衛門の妻お澄は、三年前に五人目の男の子を産んだあと全身の浮腫(むくみ)がとれず、未だに寝たり起きたりの生活を送ってい た。もっと早目に医者に診せておけば回復も早かったかも知れないが、暮しのため一文、二文の銭にも苦労する百姓にとって高価な医者代を工面するのは容易なことではなかった。百姓の多くがそうであるようにお澄の場合も手遅れになってやっと医者を呼んだのである。一家の重要な働き手を失った今では彼の持高もぐっと減り、苦しい家計を補 う必要から忠右衛門も小前の百姓同様、他家の手伝や枚方宿の人夫に働きに出ている有様だった。
 おのぶは山間にこもる清冽な寒気の中に立って男たちがカサカサと落葉を踏んで行く音を聴いていた。眼をくぬぎ林のずっと上空に向けると自い煙が西の空へ棚引いている。あれは多分、源六一家が炭を焼いてるのだろう。あの辺りの雑木林では春になると蕨(わらび)や薇(ぜんまい)が採れるので、その頃には毎年のように源六のお袋が挨拶がてらにおのぶの所へ山菜を届けてくれる。そういえば大塩さまも才治郎に案内させてあの山へ登られたことがあった。一日、十五里は行くと言われる師の健脚ぶりに山里育ちの息子も舌をまいたものだった。
 男たちの足音が林の奥深くへ消えてしまうと、おのぶのなかへ又しても新兵衛の面影が浮かびあがり胸が切なくなる。
〈あの方はもう旅へ出られたのだろうか〉
 男の深く静かな眼差しと痩せて尖った肩を瞼の裏へ描き出しながら逢いたいと願った。そう思う端からすぐに男への疑念が頭を擡(もた)げてくる。
〈あの方にとってこの私はほんの行きずりの女(おなご)でしかなかったのかも知れない。そんな男の訪れを小娘みたいに胸をときめかせて待つやなんて、私も阿呆な女や〉
 女主人としての誇りと自負を取り戻したおのぶの胸裡に自嘲がこみあげる。
〈さあ仕事、仕事!!〉
 雑念を振り払って機織りにかかろうと踵を返しかけた矢先、思いがけなく背後から才治郎に声をかけられた。
「まあ、急に大きな声だして、吃驚(びっくり)するやおまへんか」
 おのぶは振り返りざま息子に言った。すると才治郎の後に新兵衛の姿も見えた。
「新兵衛はん、旅に出はりましたのではなかったのだすか」
 おのぶは頬が上気してくるのを覚えながら努めて平静を保ったが、つい恨み言が口をついて出た。それならなぜ顔を見せてくれなかったのかと、男の薄い胸を叩いて問いたい衝動がおのぶの心を駆け巡る。
「才治郎、今日は何の用で戻ってきたのだす」
 己れの感情を押し殺したおのぶは息子の不意の帰宅に不審の眼を向けた。
「実は先生から村の者へ施す金子を預って参りました」
「大塩さまから――。それどういうことだす」
 おのぶは裏口をくぐって二人を屋内へ誘い仔細をたずねた。才冶郎は炉端へ坐って肩から背へかけていた包を脇へおろすと、居住まいを正して話し始めた。聞けば平八郎は飢饉で苦しむ庶民を救うために蔵書六万巻を売却し、本の代金で作った一朱の引札一万枚を安堂寺町の本屋仲間の会所前でつい先日配ったばかりだという。
「初め三日間に渡ってくばる予定だしたが、多人数に及ぶ私的な施行は、奉行所へ事前の届出がいるのにそれを怠ったと言って、奉行所から中止命令が出されたのですけど、大よそくばってありましたので先生の目的は達成されたというわけだすわ。村へ持ち帰る分は引札でのうて、金に替えてきたんだす」
「そうだしたか。けど学者の大塩さまが本を全部お売りになるやなんて唯ごとやおまへん。この先どうなさるおつもりなのですか」
 おのぶは平八郎の真意が判らないので、目の前の二人を交互に見やった。
「先生は日頃から善と知りつつ、それを実行しなければ学んだ意味がないと教えてこられました。この度の施行はそのことを身をもって示されたのだす」
 才治郎は師への尊敬を利発な瞳に宿し、晴ればれした眉でそう言う。
「先生がそこまでなさらなくても、お上の方でなんとか出来しまへんのか」
「それが出来る位なら苦労しまへん。大塩さまの名声を嫉(そね)む了見の狭い奉行に、人間の暖かい血など通うておるものですか」
 息子はまるでその張本人が目の前にいるかのように、憎しみをこめて言った。おのぶは才治郎の激しい口調にしばらく息を呑んだ。
「ところで藤助はおりますか」
 才治郎は包を膝の上へ取りあげながら作男の所在をたずねた。
「納屋の前で薪をくくっておりますやろ。あんさん行って見てきなはれ」
 おのぶは歌や八重が奥で針仕事をしている間に、男と二人きりの時を持ちたいと願っていたのだ。才治郎が出ていってしまうとおのぶは熱い視線を傍らの新兵衛に向けた。
「今夜、ぜひ向こうへお出でくださりませ。どんなに遅うなりましても起きて待ってます」
 声を潜めて誘う女に男が応えようとしたその時、おのぶの背後の襖が開いて歌が顔を覗かせた。
「お越しやす。今日はおひとりですか」
 歌は近くへ寄って挨拶する。そこへ藤助を伴なった才治郎が急ぎ足で戻ってきた。
「あら、才治郎さんもご一緒だしだの」
 歌はいくらかち羞じらいながら義弟を迎えた。彼女はどちらかといえば夫の治兵衛の冷静さより才治郎の激しい青年らしさに惹かれていた。そんな嫂の感情を薄うす感じていた才治郎はそれには気付かぬ振りして、新兵衛の傍へ寄った。
「穂谷と杉村へはこれから藤助に行ってもらいますわ。忠はんのとこへは新兵衛はん行ってもらえますかいな」
 才治郎はそういうなり一朱金を十六個とり出して藤助へ手渡した。
「先前(さいぜん)いうた家へ一朱ずつ渡してきてんか。大塩さまからの施しやいうの忘れたらあかんで。なんぼ米の値が天井知らずやいうても、これだけの金があれば米の三升は買えるやろ」
 藤助が股引の旗掛けのなかへ金子をしまいこむのを見届けた才冶郎は、日頃の淡白さに似合わず念を押す。その間おのぶは黙って男たちの動きを見詰めていた。囲炉裏の赫々とした焔に照らし出された新兵衛の鬢には白髪が光り、眉間に深い竪皺が刻まれている。才治郎の精気に溢れた表情に反して新兵衛の眸は昏(くら)すぎる。おのぶはその昏さにふと危倶を抱いた。けれどもそうした彼女の心の動きに関りなく、男たちはそれぞれ慌しく戸外へ散って行った。


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